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労働について ☆ あさもりのりひこ №177

「何年か前、財布がほとんど底をつき、陸にはかくべつ興味をひくものもなかったので、ちょっとばかり船に乗って水の世界を見物してこようかと思った。」

これはメルヴィルの『白鯨』の始まりである。

すばらしい書き出しである。

 

2008年6月7日の内田樹さんのテクストを紹介する。

どおぞ。

 

 

「仕事について」。

働くモチベーションをどうやって維持するか。

このところよく訊かれる。

よほど働くモチベーションを維持することがむずかしい時代のようである。

  私は「働くモチベーションがなくなった」経験がない。働くのはとりあえず生きるためであり、「生きるモチベーションがなくなる」ということは私の場合にはこれまでなかった(先のことはわからないが)。

だから、いつも仕事を探していた。

「なんか仕事ありませんか?」と知り合う人ごとに懇請するのが、久しく私の基本的な社会的態度であった。

今でもあまり変わらない。

仕事は「させてもらうもの」だった。

さすがに最近は仕事を断ることが多いが、別に働くモチベーションが下がってそうしているわけではない。

単に今やっている以上の仕事を入れるだけの時間がないだけである(あればやっている)。

「あなたはやりがいのある仕事をしているから、そういうことが言えるのだ。やりがいのない仕事をしている人間の気持ちが分からないのだ」という反論がつねにある。

だが、私のやっている仕事が「例外的にやりがいのある仕事」だとどうして余人にわかるのであろう。

大学の教師の中にも授業がいやでいやで仕方がなく、夏休みの来るのを指折り数えている人間はいくらもいる(半分がたそうである)。

彼らにとっては苦役であるところの講義や演習は私にとっては少しもそうではない。

仕事の苦楽は仕事そのものによって決められるのではない。

その仕事を「やらされている」のか、「やらせていただいている」のマインドの違いによって決される。

私はいつも仕事は「やらせていただいている」というふうに考えている。

そういうふうに考えるのは当世風ではない。

当今の方々は「労働」と「報酬」が等価交換されるという図式で労働を捉えている。

ならば、雇用する側は「どうやって報酬を引き下げるか」を考えるし、雇用される側は「どうやって苦役を軽減するか」を考える。

そうなるほかない。

そういうつもりの人間たちが集まって仕事をしても、ぜんぜん楽しくない。

「働くモチベーションが下がる」のは当たり前である。

労働と報酬は「相関すべきである」というのは表面的にはきわめて整合的な主張のように見えるが、実際には前件の立て方が間違っている。

等価交換論の前件は「労働者はできるだけ少ない労働で多くの報酬を得ようとし、雇用者はできるだけ少ない報酬で多くの労働力を買おうとする」というものである。

そんなの常識ではないかと言う方がおられるかもしれない。

あのね、そんなの少しも常識ではないのだよ。

もしそうなら、人類の生産力と生産関係は新石器時代で停止しているはずだからである。

とりあえずそこらへんの木の実を拾ったり、魚を釣ったり、小動物を狩ったりして飢えが満たされるのなら、誰が分業だの企業だの資本だのというめんどうな制度を作り出すであろう。

労働は「オーバーアチーブ」を志向する。

飢えが満たされても満たされないのである。

もっと働きたいのである。

そういう怪しげな趨向性を刻印された霊長類の一部が生産関係をエンドレスで巨大化複雑化するプロセスに身を投じたのである。

どうして「そんなこと」を始めたのか、私は知らない(たぶんマルクスも知らない)。

とにかく、そういうことになった。

だから、労働と報酬の等価交換が成り立つべきだという「整合的な」理説で労働を説明することはできない。

その等式を実現するために人は労働するのではないからである。

労働というのはもっと「わけのわからないもの」である。

労働はセックスや宗教や言語と同じように、「どうして、そういうものがあるのかを自分では説明できない」ことのひとつである。

私たちはそのどれも説明できない。

私たちはもうその制度の中に巻き込まれており、その制度の枠内で生きているからである。

労働の本質を客観的な視点から語ることはできない。

たとえば、私がこのように「労働の本質とは何か?」について縷々解説した後に、ふうと額の汗を拭いて、「やあ、今日もよく働いたなあ」とささやかな満足を感じたとしたら、私が今語ったばかりの「労働の本質」についての論に客観性を認めることはむずかしいということはどなたにもおわかりになるであろう。

「貨幣の幻想性と無根拠性について知りたいのかね?よいとも、お教えしようではないか。でも、その前にまず受講料を払ってね」というのと同じである。

労働とは何か、私たちはよくわかっていない。

その謙抑的な態度がこの問題を論じるときの基本である。

憲法27条には「すべて国民は勤労の権利を有し、義務を負う」とある。

すらっと読むとなんということもない文言であるが、よく読むと意味がわからない。

だって、権利でありかつ義務なのである。

それをするのが権利の行使であると同時に義務の履行であるようなことをみなさんは勤労の他に思いつけますか。

私は思いつけない。

言論の自由や信教の自由や集会結社の自由は基本的な権利ではあるけれど、義務ではない。現に憲法のどこにも「すべて国民は自由な言論を語る義務がある」とか、「神を信じる義務がある」とか「政治行動をする義務がある」とは書いていない。

納税の義務はあるが納税の権利はない(いやがる税務署にむりやり税金を受け取らせる人を私は見たことがない)。

親には子どもを学校に通わせる義務があるが、これも権利ではない(もともと子どもを親の暴力と収奪から守るための制度である)。

私たちには「自分の適性を発現する義務」も「自分らしく生きる義務」も「自己利益を追求する義務」もない。

だから、労働の本義は「そういうもの」ではない。

「そういうもの」だと考えるのが最初のボタンの掛け違えなのである。

どうして人間は労働するのか「よくわからない」というのが労働について意見を徴されたときのもっとも適切な回答である。

「よくわからない」からとりあえずやってみる。

実際にやってみないと、労働が何であるかはわからない(やってもよくわからない)。

「何年か前、財布がほとんど底をつき、陸にはかくべつ興味をひくものもなかったので、ちょっとばかり船に乗って水の世界を見物してこようかと思った。」

これはメルヴィルの『白鯨』の始まりである。

すばらしい書き出しである。

「ちょっとばかり」船に乗ったせいで、イシュメールはエイハブ船長が海底に呑み込まれてゆくまでの巨大な物語の証人になる。

私たちはそんなふうに仕事を始めるものなのだ。

私は自分がどうして今こんなところでこんな仕事をしているのか、その理由を知らない。

きっかけは私が(ちょっとばかり)望んだことだけれど、後のほとんどは私のコントロールしえない力に押し流されてのことである。

 もし、仕事をすることが「自分は自分の生の主宰者ではない」という事実を端的に思い知らされる経験であるとしたら、それはほとんど信仰に似ている。