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言論の自由 ☆ あさもりのりひこ №187

言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。

 

2008年11月12日の内田樹さんのテクストを紹介する。

どおぞ。

 

 

つねづね申し上げているように「言論の自由」というのは、「自分の持論の当否について検証できるのは私ではなく他者である」という「場への信認」のことである。

『大人のいない国』でしつこく書いたことだけれど、「言論の自由」とは何のことか、もう一度繰り返す。

 

メッセージはその正否真偽を審問される場に差し出されるとき、「その正否真偽を審問する場」の威信を認めなければならない。それを認めない人間はそもそも「言論の自由」の請求権がないと私は思う。

「私は誰がどう思おうと言いたいことを言う。この世界に私の意見に同意する人間が一人もいなくても、私はそれによって少しも傷つかない。私の語ることの真理性は、それに同意する人間が一人もいなくても、少しも揺るがないからである」と主張する人間がいたとする。彼は果たして「言論の自由」を請求するだろうか。私はしないと思う。「私は誰の承認も得なくても、つねに正しい」と主張する人がその上なお「言論の自由」を求めるのは、「すべての貨幣は幻想であり、無価値である」と主張する人間が、その主張を記した自著の印税支払いをうるさく求めるのと同じように背理的である。というのも、「言論の自由」とはまさに「他者に承認される機会を求めること」に他ならないからである。

「言論の自由」は、自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものか忘却に任されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名することである。自分が発する言葉は、他者に聴き取られなくても、同意されなくても、信認されなくても、その意味と価値をいささかも減じないと言い張る人間が請求しているのは「言論の自由」ではなく、「教化する自由、洗脳する自由、他者の意見を封殺する自由」である。彼は「自由な言論が行き交う場」の威信を構築するために汗をかく気はない。なぜなら、彼の言葉は他者たちによる吟味の場に差し出されるに先立って、すでに真理であることが確定しているからである。もし、「言論の正否真偽を審問する場の成立に先立ってすでに真理である言葉」が存在しうるというのなら、「自由な言論の場」に存在理由はない。その場合には、「言論の自由」は真理を語る人間だけに許され、それ以外のすべての人間は「同意」か「沈黙」のいずれかを選択すべきであろう。もし、真理が「言論の自由に行き交う場」とは違う審級で、その場に差し出されるに先んじて、すでに決定されうるなら、そういうことになる。

言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由な言論の行き交う場」そのものであるという、場の威信に対する信用供与のことである。言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される、そのような「場が存在する」ということへの信認抜きに「言論の自由」はありえない。「聴き手が同意しようとしまいと、私は言いたいことを言う」という態度に、場の威信と場の判定力対する信認を認めることはむずかしい。

 

「言論の自由」を自説を公開することの根拠とする人間に何より求められるのは「情理を尽くして説得する」という構えだろうと私は思う。

自説に反対するであろう人たちとも「ここだけ」は共有できるというプラットフォームを探り当て、「とりあえず、ここまではよろしいですね」という同意をどれほど迂遠であろうとも、一歩一歩積み重ねて、そうやってはじめて「説得」という営みは成り立つ。

だから、「説得」とは「私は正しい、おまえは間違っている」という話型を取らない。

「私も永遠の真理を知らず、あなたも知らない。だから、私たちはたぶんどちらも少しずつ間違っており、少しずつ正しい。だとすれば、私の間違いをあなたの正しさによって補正し、あなたの間違いを私の正しさによって補正してはどうだろうか」というのが「言論の自由」が要求するもっとも基本的な「ことばづかい」であると私は考えている。

誤解している人が多いが、「言論の自由」に基づいて私たちが要求できるのは「真理を語る権利」ではなく、「間違ったことを言っても罰されない権利」である。

その権利の請求の前件は「私は間違ったことを言っている可能性がある」という一項に黒々と同意署名することである。

だから、「私は正しく、おまえは間違っている」という前提から出発する人は「言論の自由」の名において語る権利を請求できないだろうと私は思う。

彼は「絶対的真理」の擁護者なのであるから「絶対的真理」の名において自説を語るべきだろう。

 

それがことの筋目ではないのか。