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従者の復讐 ☆ あさもりのりひこ №207

日米間には権力的な非対称関係がある。

端的に言えば、日本はアメリカの軍事的属国である。

これは歴史的事実である。

 

 

2010年4月8日の内田樹さんのテクストを紹介する。

どおぞ。

 

 

取材で鳩山政権の迷走について訊かれる。

どうして日本政府はアメリカに対して毅然とした態度が取れないのかというお訊ねである。

メディアは単純に「それは総理が無能だから」という属人的な説明でケリをつけようとしている。

もちろん統治者の資質が外交の成否に深く関与するのは事実である。

だが、現在の日本のメディアの、すべての政治的できごとの成否を属人的な能力によって説明するスキームの定型性に私はいい加減うんざりしている。

たしかに、外交がうまくいっていないという事実に為政者の個人的能力はふかく関与している。

けれども、それが「外交の失敗のすべての理由である」としてそれ以上の吟味を放棄するのは、思考停止に等しい。

歴代の統治者たちが組織的にある外交に失敗するとしたら、それは属人的な要素によっては説明できない構造的な問題があるのではないか、と考えるのが科学的な考え方である。

日本のジャーナリストには、この「構造的な問題」を「科学的に考える」という構えが致命的に不足しているように思われる。

日米間には権力的な非対称関係がある。

端的に言えば、日本はアメリカの軍事的属国である。

これは歴史的事実である。

日本人は全員その事実を知っているが、「知らないふり」をしている。

だから、改めて「どうして日本はアメリカに対して毅然とした態度が取れないのか」などと凄んでみても始まらない。

話は「そこから」始まっているわけで、「そこ」に話を戻しても私たちは日米関係について何ら新たな知見を得ることができない。

問題は「どうして日米の権力的非対称関係を熟知していながら、知らないふりをする」という佯狂的な戦略を日本人が国民的規模で採用しているのかということである。

さらに言えば、それは「どのような外交的得点を日本にもたらすのか」ということである。

基本的なことを確認しておこう。

人間は「自分の得になる」と思うことしかしない。

日本がアメリカの下風に立って、外から見るとどうにも醜悪な「従者」のふるまいをしているのは、それが「自分の得になる」と思っているからである。

日本の「得」とは何か。

アメリカの従僕として、その「獲物の分け前」に与ることか。

多少はそれもあるだろう。

けれど、そのようなふるまいはただ日本人の国民的誇りを傷つけるだけで、得たよりも多くを奪い去る。

「アメリカに諂って、余沢に浴する」のは差し引き勘定では「赤字」になる。

人間は「赤字になるとわかっていること」はしない。

ということは、論理的に答えは一つしかない。

私たち日本人は「『赤字になるとわかっていること』をすることを通じて、黒字を出そうとしている」ということである。

わかりにくい書き方ですまない。

国民国家にとっての「黒字」というのは一つしかない。

それは国民的統合を達成し、国民的矜恃を高く保つことである。

それ以外の、貿易赤字だの、不況だの、格差だの、仮想敵国の脅威だのということはそれが国民的統合と国民的矜恃を傷つけない限り、副次的な「解決可能」なトラブルにすぎない。

しかし、国民がばらばらに分裂し、その国の国民であることを恥じるようになったら、外貨準備があっても、景気がよくても、平等でも、平和でも(などということはありえないが)、その国は終わりである。

国民国家である日本に課せられた課題は一つだけである。

それは、日本人が国民的に統合され、日本人であることに誇りをもつことである。

それが達成されれば、ボロを着てようが、粗食に甘んじようが、敵に取り囲まれていようと、国民国家的には「黒字」なのである。

それはもちろん国民ひとりひとりの個人生活における「幸福」とは関係がない。

個人的には「きれいな服着て、うまいもん食って」いれば、国なんて滅んでもアイドンケアーという人はたくさんいる。

私は「国家」の話をしているのである。個人の話をしているのではない。

そして、普天間基地は「国家の問題」なのである。

だから、これについての国民的な構えは「国民国家としての黒字」をどうやって出すか、という問いに絞り込まれる。

まず原理的なことを確認しておこう。

外交はゼロサムゲームである。

一方が失った分が他方の得点になる。

基地問題で、日本の「得点」になるのは「米軍基地の国外移転と用地返還」である。

それはおそらくアメリカが許さない。

その理路についてはすでに何度も書いた。

それは別にアメリカの西太平洋における軍事的に実証的な根拠があってのこだわりではなく、幻想的な「西漸圧力」にアメリカ国民が抗しきれないからである。

となると、日本に残された選択肢は論理的には一つしかない。

それは「アメリカの失点」である。

基地問題をめぐる外交交渉をめぐって、手札の限られた日本に許される「勝ち」は、「この交渉を通じてアメリカの国力を殺ぐこと」である。

アメリカ政府高官たちを悪代官的な「憎々しげ」な対応に追い込み、日本人の反米感情に心理的エネルギーを備給し、アメリカとは「軍事力だけで属国を恫喝しているあくどい超大国」であるというイメージを広く国際社会に印象づけ、国際社会における威信を低下させ、覇権を脅かし、ついには「帝国の瓦解」を達成することである。

基地交渉の過程でもし、日本政府がアメリカの植民地主義的本質を露呈させることに「成功」するならば、沖縄の基地問題が「解決しない」ということそれ自体が日本のアメリカに対する「得点」にカウントできる。

この理路にご同意いただけない方もいるかも知れないから、もう少し説明しよう。

日本がほんとうに「親米的」であり、かの国の行く末を真剣に気づかっているとする。

だとしたら、日本がまずなすべきことは、アメリカとその「仮想敵国」たちのあいだの和解を周旋し、アメリカが「世界から敬愛され、その繁栄を世界中の人が望むような国」になるように一臂の力を貸すことであろう。

そのために短期的にはアメリカ政府をきびしく叱正したり、怒鳴りつけたり、その協力要請を断ったり、という「教育的指導」があって然るべきである。

ところが、戦後65年間日本人は「そんなこと」を一度もしたことがない。

日本は「アメリカが世界中の人々から敬愛され、その繁栄を世界中の人々が望むようになるため」には指一本動かさなかった。

これはほんとうである。

その代わりに、朝鮮戦争のときも、ベトナム戦争のときも、アフガン侵攻のときも、イラク戦争のときも、「それをするとアメリカの敵が増える政策」については日本政府はきわめて熱心な支持者であった。

イラク戦争開始時、ヨーロッパの多くの国がその政治的大義についても軍事的見通しにも、つよい疑念を投げかけていたときに、小泉純一郎はこれを世界に先駆けて断固支持し、ジョージ・ブッシュの背中を押して、アメリカを「出口のない戦争」に導き入れた。

私の判断では、小泉純一郎は「アメリカ帝国の没落」に最も大きな貢献を果たした外国人政治家の一人である。

それゆえ、私は小泉の対米戦略をもっぱら「悪意」という動機によって説明できると考えている。

彼はA級戦犯の祀られている靖国神社に公式参拝して、アメリカ主導の東京裁判の歴史的意義を全否定してみせた。

また「規制緩和・構造改革」と称して、あきらかに日本の風土になじまないアメリカ的モデルを強権的に導入し、日本国民全員が痛みのうちに「だから、アメリカの制度はダメなんだ」という合意に達するところまで社会制度を破壊してみせた。

彼がその政策のすべてに失敗したにもかかわらず、いまだに根強い国民的人気を誇っているのは、彼がたぶん歴代の総理大臣のうちでいちばん「アメリカに対してひどいことをした」からである。

日本の「口にされない国是」は「アメリカと戦って、次は勝つこと」である。

敗戦の日に日本人は「次は勝つぞ」と言うべきであったのに、言わなかった。

言えなかった。

圧倒的な彼我の軍事力の差がその言葉を言わせなかった。

大日本帝国戦争指導部のあまりの無能ぶりがその言葉を凍りつかせた。

その言葉は日本人の「無意識の部屋」に閉じ込められた。

それから65年間ずっと、その言葉は門番の眼を騙して、その部屋から「外」へ出ようともがいている。

抑圧されたものは症状として回帰する。フロイトの言う通りである。

日本人の「アメリカと戦って、次は勝つ」という抑圧された欲望はさまざまなかたちをとって回帰してきた。

その中で、もっとも成功したのは「アメリカが愚かな、自滅的な外交政策を採るときにはそれを全力で支援する」というものであった。

別に珍しい話ではない。

侵略者に滅ぼされた旧家の王族が、父母を殺した王位簒奪者の従者に採用された。

屈辱的な仕事だ。

非力な彼に残された復讐の方途は一つしかない。

それは王に迎合し、おもねり、へつらうことである。

王の愚劣な意見をほめそやし、奸佞なものを忠臣だと持ち上げ、諫言するものを讒言によって陥れ、酒色に溺れるように誘い、豪奢な宮廷を建て、無用な外征を全面的に支持してみせる。

そのような阿諛によって「王を没落に導くこと」が従者に零落したものに許された、おそらくもっとも効果的な復讐なのである。

私は日本人は戦後65年かけて「従者の復讐」を試みてているのだと思っている。

それがはっきりわかったのは、何年か前にハリケーンがアメリカ南部を襲ったときの現地レポーターの顔を見たときだった。

スラムの黒人たちが電器屋を襲い、窓ガラスを破って、オーディオを盗み出している資料映像をはさみながら、レポーターは濁流に呑まれた街を指さし、連邦政府の救援活動が遅遅として進まないこと、移動手段をもたない貧しい黒人たちが取り残されて被害者となったこと、街では略奪やレイプが日常茶飯事化していることを「ほとんどうれしげに」報じていた。

私はそのときに「主人の館」が焼け落ちるさまを薄笑いを浮かべながら見つめている「従者」のニヒリズムを見た思いがした。

なるほど、私たちはアメリカの滅亡を心底願っているのだ。

もちろんアメリカが没落するとき、日本もその余波で無事ではいられない。

主人の館が焼け落ちれば、従者もまた寝る場所を失うのである。

けれども、自国の没落を代償に差し出しても、アメリカの滅亡を達成することは日本人の歴史的悲願なのである。

私はさきに日本人は「アメリカの軍事的属国であることを知っていながら、知らないふりをしている」と書いた。

これにはもう少し追加説明が必要だ。

日本人がほんとうに知らないふりをしているのは「日本が従者として主人におもねることを通じて、その没落を念じている」ということそれ自体なのである。

私は沖縄の基地問題はこのような分析的な文脈で考察すべきことだろうと思う。

この交渉における、日本政府の真の勝利はむろん「米軍の沖縄からの撤退と基地の全面返還」である。

次善の策は、米軍が「ごねて」、理不尽な要求を日本政府と沖縄県民に突き付け、その植民地主義的本質を露呈し、世界中の人々から「厭な国だ」と思わせることである。

その妥協の「おとしどころ」は極端な話、どうでもいいのである。

沖縄県民が「私たちはいつまで犠牲にされるのでしょう」と絶望的な訴えをする映像がこの交渉の「本質」を伝えるものとして世界中のメディアに宣布されるなら、この政策は部分的には「成功」と言えるのである。

日本のメディアはこの交渉の不首尾について、もっぱら「日本政府の腰の弱さ、定見のなさ」ばかりを批判するが、欧米のメディアは、総じて「アメリカ政府の首尾一貫した横暴ぶり」の方を優先的に批判している。

当然である。

ワルモノが弱々しい市民をいたぶって理不尽な要求をしているときに、市民に向かって「堂々と戦え」と言うより先に、ワルモノに向かって「理不尽なことを止めろ」と言うのがことの筋目だからである。

そして、実際にそうなっている。

私たちは沖縄基地問題を「それだけ」で見ているが、それはこれからも続く長い物語の一節にすぎない。