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池谷裕二さんの講演を聴く ☆ あさもりのりひこ №212

「学習」は脳への入力である。

「テスト」は脳からの出力である。

つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。

平たく言えば、「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。

 

 

2010年7月11日の内田樹さんのテクストを紹介する。

どおぞ。

 

 

スワヒリ語の単語40語を学習して、それから覚えたかどうかテストする。

という単純な実験である。

ただし、4グループにわけて、それぞれ違うやり方をする。

第一グループはテストをして、一つでも間違いがあれば、また40単語全部を学習し、40単語全部についてテストをする。

それを全問正解するまで続ける。

いちばん「まじめ」なグループである。

第二グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、40単語全部についてテストをする。

第三グループは、間違いがあれば、40単語全部を学習し、間違った単語についてだけテストをする。

第四グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、間違った単語についてだけテストをする。

これがいちばん「手抜き」なグループである。

全問正解に至るまでの時間はこの4グループに有意な差はなかった。

まじめにやっても、ずるこくやっても、どの勉強法をしても、結果は同じなのである。

ところが、それから数週間あいだを置いて、もう一度テストをしたら、劇的な差がついた。

「まじめ」グループの正解率は81%。「手抜き」グループの正解率は36%。

まあ、これは天網恢々粗にして漏らさずというやつである。

さて、問題は、第二グループと第三グループはどういうふうになったかである。

第二と第三はやったことがよく似ている。勉強に割いた時間も変わらない。にもかかわらず、大きな差がついた。

さて、どちらが正解率が高かったでしょう。

1分間考えてね。

第二グループの正解率は81%(「まじめ」グループと同率)。

第三グループの正解率は36%(「手抜き」グループと同率)。

これから何がわかるか。

「学習」は脳への入力である。

「テスト」は脳からの出力である。

つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。

平たく言えば、「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。

書斎にこもって万巻の書を読んでいるが一言も発しない人と、ろくに本を読まないけれど、なけなしの知識を使い回してうるさくしゃべり回っている人では、後者の方が脳のパフォーマンスは高いということである(生臭い比喩であるが)。

パフォーマンスというのは、端的に「知っている知識を使える」ということである。

出力しない人間は、「知っている知識を使えない」。「使えない」なら、実践的には「ない」のと同じである。

学者たちを見ていると、そのことはたしかによくわかる。

入力過剰で、出力過少の学者たちは、そのわずかばかりの出力を「私はいかに大量の入力をしたか」「自分がいかに賢いか」ということを誇示するためにほぼ排他的に用いる傾向にある。

せっかくの賢さを「私は賢い」ということを証明するために投じてしまうというのは、ずいぶん無駄なことのようなに思えるが、そのことに気づくほどには賢くないというのがおそらく出力過少の病態なのであろう。

むかし、学生院生たちがよく読書会というのをやっていた。

彼らはちょっとずつ頁を進めながら、これはいったいどういう意味なのであろうかと話し合い、これはどういう学説史の中に位置づけられるのであろうか、というようなことを論じ合っていた。

あのさ、読むのはいいけれど、使ってみないと、どうしてその人がそんな本を書いたのか、その意味はいつまでもわからないよ、と私は彼らに申し上げたことがある。

自転車に乗るのといっしょである。

みんなで集まって、何日も何週間も自転車の部品をぴかぴかに磨いたり、設計図を眺めたり、「自転車の歴史」という本を読んで、自転車がこのような形態をとるに至った歴史的進化のプロセスを勉強したりしても、自転車が何をするためのものかはわからない。

それよりも「乗る」方が先でしょ。

まず飛び乗って、走ってみる。

そのうちにハンドルというのがどういうものか、チェーンというのがどういうものか、ブレーキというのがどういうものかについての理解がすりむいた膝の傷の数と一緒に増えてゆく。

どういう自転車がより高機能であるのか、どういうかたちのもの自分の目的に似つかわしいかがだんだんわかってくる。

わかってきたら、それを「自作」すればいい。

学問というのは、そういう生成的なプロセスである。

あらゆる学問は、その学問を「自作」した個人の夢を宿している。

彼はその学問を作り上げることによって「何をしたかったのか?」

それを問うためには、その学問に「乗って、走ってみる」しかない。

自転車を作った人の「夢」は自転車に乗ってみないとわからない。

眺めても、わからない。

レヴィナスの本をはじめて読んだときに、意味がぜんぜんわからなかった。

でも、頭の中に手を突っ込まれて、ぐるぐると引っかき回されたことはわかった。

そのときに、この世には「知識」として習得されるためにではなく、「知識を習得するための装置そのものを改変させるため」に読まれる書物が存在することを知った。

それが書物の「出力」性ということであると私は理解している。

爾来私は書物について「出力性」を基準にその価値を考量することにしている。

小説だってそうである。

 

読んだあとに、「腹が減ってパスタが茹でたくなった」とか「ビールが飲みたくなった」とか「便通がよくなった」とか「長いことあっていない友だちに手紙が書きたくなった」いうのは、出力性の高い書物である。