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兵站と局所合理性について ☆ あさもりのりひこ №220

チェルノブイリ原発事故から30年になる。

そこで,2011年3月24日の内田樹さんのテクスト「兵站と局所合理性について」を紹介する。

どおぞ。

 

 

兵站についてツイッターに昨日少し思うことを書いた。

まず、それを再録しておく。

 

昨日言い忘れたことのひとつを思い出しました。logistics のこと。兵站学。本義は「輸送、宿営、糧食、武器、人馬の補給管理、傷病者の処置などに関する軍事科学の一分野」。日本陸軍は伝統的に兵站を軽視したことで知られています。

司馬遼太郎が書いていましたが、日露戦争のとき、兵士は数日分の食糧しか持たされず前線へ送られたそうです。「あとは現地で調達(強奪)せよ」ということです。伝統的に日本陸軍はそうだった。

今回の震災の危機管理を見て、「これは日本陸軍だ」と思いました。

「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」という戯れ歌のうちに大日本帝国戦争指導部の兵站軽視は反映していますが、同じことが今も続いている。前線の「兵士」の活躍は大きく報じるけれど、それを支える兵站の仕事を高く評価する習慣はない。だから、みんな「兵士」になりたがる。

震災の危機対応の中で、logisticsは最優先の課題であるはずです。本来なら国家戦略局がその任に当たるべきなのでしょうが、それが機能しているように見えない。仙谷さんが官房副長官に入ったのは、たぶんその「誰もやらない」仕事を委託されてのことでしょう。

兵站を管理するためには「豪腕」が要ります。「豪腕」というのは、なにも現場に行って職員を怒鳴りつけることではありません。「無理が通る」ということです。「ルールの弾力的運用を求められる」ということです。

もちろん法的な裏づけが第一には必要なのですけれども、それ以上に必要なのはさまざまなセクションに横断的に「assets」を有しているということです。個人的な信頼関係です。「この人の頼みじゃ断れないよ」と思う人間を、枢要なポジションに網羅的に配備していること。それが「豪腕」の本質です。

兵站の仕事はですから危機対応ではない。危機の到来に先んじて、assets の形成に長い時間と手間暇をかけてきた人間だけがこの任に当たることができる。そういうタイプの政治家や行政官を重用することを怠ってきたことをもう少し重く受け止めるべきでしょう。

 

というのがその文章である。

投稿したあとに、それは日露戦争ではなく、太平洋戦争だろうという誤記についての指摘があった。

私も司馬遼太郎の原典に当たって調べたわけではなく、うろおぼえのまま書いたので、指摘の通りかも知れない。日露戦争の頃の日本の軍人は大山巌にせよ、児玉源太郎にせよ、合理的な思考ができる人たちだったはずである(そうでなければ、ロシアを相手の戦争に勝てたはずがない)。

どなたか「食糧数日分」の出典をご存じのかたがいたらご教示願いたい。

いずれにせよ、日本陸軍が伝統的に兵站を軽視していたという知見は司馬遼太郎からの請け売りである。

もうひとつ「戦力の逐次投入」というのも日本軍の宿痾だったはずという指摘があった。

まったくご指摘の通りである。

ノモンハンもガダルカナルもこれで歴史的な敗北を喫した。

福島原発の処理を見て「戦力の逐次投入」という「必敗のパターン」を踏んで官邸と東電が動いているのを見て、不安になった人は多いはずである。

「いまのところ問題はありません。事態は好転しています」という「大本営発表」的な楽観論を繰り返す原子力学者たち(そのほとんどが東大教授)の顔つきにも私たちは気鬱な既視感を覚えたはずである。

どうして日本は「こんな国」になってしまったのか。

それが司馬遼太郎につきまとった生涯の問いだった。

明治40年代まではそうではなかった。日本人はもっと合理的で、実証的で、クールだった。あるときから、非合理的で、原理主義的で、ファナティックになった。

たぶん、その両方の資質が日本人の国民性格には含まれていて、歴史的状況の変化に応じて、知性的にふるまう人と、狂躁的に浮き足立つ人の多寡の比率が反転するのだろう。

おおづかみに言うと、「貧しい環境」において、日本人は知性的で、合理的になる。「豊かな環境」において、感情的で、幼児的になる。

幕末から明治初年にかけて、日本は欧米列強による植民地化の瀬戸際まで追い詰められていた。そのとき日本人は例外的に賢明にふるまった。東アジアで唯一植民地化を回避し、近代化を成し遂げたという事実がそれを証している。

敗戦から東京オリンピックまでの日本人もかなり賢明にふるまった。マッカーサーから「四等国」という烙印を押され、二度と国際社会で敬意をもって遇されることはないだろうと呪われた日本人は、科学主義と民主主義という新しい国家理念を採用することで、わずかな期間に焦土を世界の経済大国にまで復興させた。

近代150年を振り返ると、「植民地化の瀬戸際」と「敗戦の焦土」という亡国的な危機において、日本人は例外的に、ほとんど奇蹟的と言ってよいほどに適切にふるまったことがわかる。

そして、二度とも、「喉元過ぎれば」で、懐具合がよくなると、みごとなほどあっという間にその賢さを失った。

「中庸」ということがどうも柄に合わない国民性のようである。

今度の震災と原発事故は、私たちが忘れていたこの列島の「本質的な危うさ」を露呈した。

だから、私はこれは近代史で三度目の、「日本人が賢くふるまうようになる機会」ではないかと思っている。

私たちは地球物理学的にも、地政学的にも、つねに一歩誤れば国を失うような危険のうちで生きている。

そのことを念頭に置いて社会システムを制度設計していれば、「こんなこと」は起こらなかった。

「こんなこと」が起きたのは、そのことをすっかり忘れていたからである。

だから、日本人はこれで「眼を覚ます」だろうと私は思っている。

私たちにとってもっともたいせつなものが何かを思い出すだろう。思い出さねばならない。

それは国土の保全と民生の安定である。

自余のことはそれに比べれば論じるに足りない。

総人口の10%が国土の0.6%に集住し、そこに政治権力も、財貨も、情報も、文化資本もすべてが集中し、それを維持するためのエネルギーも食糧も水もほとんど外部に依拠しているといういびつな一極集中構造が「火山列島」で国家を営んでゆくというプログラムにおいて、どれほどリスキーなものかは小学生にもわかる。

小学生にもわかる「リスクヘッジ」を誰も実行しようとしないのは、一極集中したほうが「効率的だ」と思っているからである。

もちろん「金儲け」にとっての効率である。

その判断は間違っていない。

けれどもそれはいわゆる「局所合理性」に基づけば、ということである。

短期的・局所的に考えれば合理的なふるまいが長期的・広域的に考えると不合理であるということはよくあることである。

集団の中で一部の人間だけがやる場合には利益を得るものがいるが、集団のほとんどがやりだすと誰も利益を得ないという営為は局所合理性の典型である。

泥棒という行為は、ほとんどの人が泥棒をしない社会では、しばしば多くの利益を泥棒にもたらす。だから、泥棒は局所的には合理的なふるまいである。しかし、ほとんどの人が泥棒をする社会では、全員が自分の財貨を護るためにある限りの時間とエネルギーを費やさねばならず、どうせ盗まれるものを生産する人もいなくなるので、遠からず全員が餓え死にすることになるから、全体的には不合理なふるまいだということになる。

原発はそれが「事故を起こさない」限りにおいては電力会社にも消費者にも地元民にも多くの利益をもたらすテクノロジーである。だから原発をどんどん建設することは局所的には合理的なふるまいである。

けれども、いったん事故が起きた場合には、被曝での死傷者が大量発生し、国土の一部が半永久的に居住不能になり、電力会社は倒産し、政府が巨額の賠償を税金をもってまかなう他なくなる。原発事故によって失われるものは、貨幣に換算しても(人の命は貨幣に換算できないが)、原発の好調な運転が数十年、あるいは数百年続いた場合にもたらされる利益を超える。

火力発電や水力発電や太陽光発電や風力発電と比べたとき、原発は局所的には(費用対効果という点でも、環境負荷という点でも)きわめて合理的な選択だが、全体的には合理性に乏しい選択である。

短期的・局所的な「金儲け」に限定すれば、原発は正解である。より長期的・広域的な「国土の保全と民生の安定」を基準に採れば、原発は正解ではない。

日本人は、そのような小学生にもわかる単純な理屈がわからなくなっていた。

日本人はようやくそのことに気づいただろうと思う。

だから、これからの中長期的な国土復興のプランはかなりわかりやすいものとなるはずである。

思いついたことをランダムに列挙する。

(1) すべての原発の即時停止と廃炉と代替エネルギー開発のための国家的プロジェクトの始動

(2) 「できるだけエネルギーを使わないライフスタイル」への国民的シフト

(3) 首都機能の全国への分散

(4) 首都圏に集中している人口の全国への分散

とりあえず、これからだろう。

震災と原発事故の被災者に対する支援は、それぞれの地域、組織の「カウンターパート」が引き受ける。

私は大学支援については、西日本にいるそのカウンターパートが分担するのがよいということを提案したが、このシステムが「対口支援」と呼ばれていることを昨日のニュース解説で知った。

対口支援についての説明をグーグルで求めたところ、中国新聞に武吉次朗という方が書いている記事があった。

平明な説明なので、これを貼り付けておく。平たく言えば、被災しなかった自治体が被災した自治体を一対一で支援するシステムである。

http://www.toho-shoten.co.jp/business/gakushu/singoga/singoga_23.pdf

このロジックを拡大してゆけば、本学が試みているように、被災しなかった大学が、教育理念や教育方法において共通点の多い同規模の被災大学の教育活動を支援するというソリューションや、被災しなかった企業が被災した同規模の同業企業を経営的に支援し、従業員を受け入れ、資材の調達や販路の確保に協力するという手立てもありうるはずである。

要は「困ったときはお互いさま」というマインドでの支援である。

私はこのプログラムは政府主導の上意下達的・中枢的な支援策よりもずっと効率的できめ細かい支援を実現しうるだろうと思っている。

支援者の側が継続的・安定的に支援を続けられるためには、支援負荷が長期的にも十分に担えるレベルのものであること、それが自分たちの組織に「利潤」ではないかたちでのメリットをもたらすものであることが必要であるが、「対口支援」はこの条件に合致する(被災地学生の受け入れは大学にほとんど教育上の負荷をもたらさず、また受け入れ側の学生にとって市民的成熟の好個の機会である)。

まなじりを決して、自己犠牲的に行う支援は、パセティックではあるが、永続的に行うことはむずかしい。

必要なのは全国民的な相互支援・相互扶助のマインドである。

長くなりすぎたので、このへんでおしまいにする。

ロジスティックスのためにどのようなシステムを構築すべきか、「ロジスティック・マインド」をどのように開発涵養すべきかという長期的な射程で語るべき論件がまだ残されているが、それはいずれの吟味する機会があるだろう。