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教育基本条例再論 ☆ あさもりのりひこ No.226

つまり、私たちの国では、能力主義的な社会の再編が失敗し、その破局的影響があらゆる分野に拡大しているにもかかわらず、そのことを指摘する人間が「どこにもいない」という痛ましい事態が現出しているのである。

 

 

2011年11月1日の内田樹さんのテクスト「教育基本条例再論」を紹介する。

どおぞ。

 

 

教育基本条例に反対する人たちにはいろいろな立場があり、私のような「教育への市場の介入と、グローバリスト的再編そのものに反対」という原理主義的な反対者はおそらく少数(というかほとんどいない)のではないかと思う。

マスメディアと保護者のほぼ全部と、教員の相当部分は「学校教育の目的は、子供たちの労働主体としての付加価値を高め、労働市場で『高値』がつくように支援すること」だと思っている。

私はそのような教育観「そのもの」に反対している。

この100人委員会にも、私に原則同意してくれる方はほとんどいないだろうと思う。

メディアでも、教育基本条例の区々たる条文についての反論は詳しく紹介されるが、私のようにこの条例を起草した人間の教育観(「学校は市場に安くて使いでのある人材を供給する工場である」)そのものに反対する立場は紹介されることがない。

それはメディア自身がそのような教育観に同意しているからである。

いや、いまさら否定しても無駄である。

「大学淘汰」の状況をおもしろおかしく報道した新聞がどれほど堂々と「競争力のない教育機関は市場から退場すべきだ」と語っていたか、私は忘れていない。

メディアは「競争力のない企業は市場から退場すべきだ」というビジネスルールをそのまま学校に適用して、「競争力のない教育機関は市場から退場すべきだ」と書いた。

この能力主義的命題が実は「競争力のない子供は市場から退場すべきだ」という命題をコロラリーとして導くことにメディアの人々は気づいていなかったのだろうか(気づいていなかったのだと思う)。

能力のない子供、努力をしない子供は、それにふさわしい「罰」を受けて当然だ、というのが能力主義的教育観である。

「罰」は数値的格付けに基づいて、権力、財貨、文化資本すべての社会的資源の配分において「不利を蒙る」というかたちで与えられる。

罰の峻厳さが(報償の豪奢と対比されることで)社会的フェアネスを担保する。

能力主義者はそう考える。

このアイディアは2005年の小泉郵政選挙で劇的な勝利を自民党にもたらした。

このとき小泉が呼号した社会の能力主義的再編(「既得権益を独占する抵抗勢力を叩き潰せ」)に、劣悪な雇用環境にいる若者たちがもろ手を挙げて賛同したことを私はまだよく覚えている。

「橋下政治」に期待する層もこれと重なる。

現に階層下位に位置づけられ、資源配分で不利を味わっている人々がなぜか「もっと手触りの暖かい、きめこまかな行政」ではなく、「もっと峻厳で、非情な政治」を求めているのである。

それは「強欲で無能な老人たちが既得権益を独占している」せいで、彼ら「能力のある若者たち」の社会的上昇が妨げられているという社会理解がいまでも支配的だからである。

彼らは社会的平等や、階層の解消ではなく、「社会のより徹底的な能力主義的再編」を求めている。

それによって、「無能な老人たち」は社会下層に叩き落とされ、「有能な若者たち」が社会の上層に上昇するというかたちで社会的流動性が高まるに違いないと期待しているからである。

このイデオロギーをもっとも熱心に宣布したのは朝日新聞である。

「ロスト・ジェネレーション」論という驚くほどチープな社会理論を掲げて、2007年朝日新聞は全社的規模のキャンペーンを長期展開し、小泉=竹中の構造改革・規制緩和に続いて、社会全体のグローバリズム的再編を強いモラルサポートを与えた。

2005年の郵政選挙から6年、「ロスト・ジェネレーション」論から4年。

日本社会はどうなったのか。

たしかに能力主義的再編は進んだ。

たしかに社会的流動化は加速した。

でも、それは下層から上層への向上でも、上層から下層への転落でもなく、「一億総中流」と呼ばれたヴォリューム・ゾーンが痩せ細り、かつて中産階級を形成していた人々が次々と「貧困層」に転落するというかたちで実現したのである。

「人参と鞭」による社会再編を日本人の多くが支持した。

「もっと甘い人参を、もっと痛い鞭を」と叫びたてた。

でも、そう叫んだ人たちのほとんどは「鞭」を食らう側に回った。

維新の会の教育基本条例は「教育の能力主義的=グローバリスト的再編の政治的マニフェスト」である。

そのようなものが起案されるのは、2005年以降の政治史的・経済史文脈と照らし合わせれば「理解」できないことではない。

けれども、そういうマニフェストは小泉改革やロスジェネ論の「末路」についての歴史的教訓を無視しない限り出てこないだろう。

たぶんこの条例案を起草した人は文科省や中教審の出したペーパーの類は読んだのだろうが、「社会の能力主義的再編」戦略そのものの破綻という歴史的現実についてはそれを読み解くだけのリテラシーを所有していなかったのだと私は思う。

たぶん彼(ら)はいまでも「強欲で無能な既得権益の受益者」を叩き潰して、「能力のある若者」たちが浮かび上がれるように社会的流動性を高めようという命題が有効であると信じている。

驚くべきことに、この命題はまだ有効なのである。

まだ社会の能力主義的再編が「間違った選択だった」ということを誰もカミングアウトしていないからである。

政治家は言わない。自民党の一部は小泉政治の間違いに気づいているが、野党が過去の失政を懺悔しても次の選挙に何のプラスにもならない。民主党の主流はグローバリストであり、「成長戦略なき財政再建はありえない」というような空語を弄んでいる。もちろん「成長戦略」などどこにも存在しない。でも、それらしきものならある。それはTPPのような「国際競争力のある産業セクターへの国民資源の一点集中」戦略である(それが「賭場で負けが込んだやつが残ったコマを張るときの最後の選択肢」と酷似していることは誰も指摘しないが)。

財界人も言わない。言うはずがない。

彼らは「多くの能力のある若者が社会下層に停滞してそこから脱出できない」という現実から「能力があり、賃金が安く、いくらでも替えの効く労働力」を現に享受しているからである。それがいずれ「内需の崩壊」を導くことがわかっていても、ビジネスマンたちは「今期の人件費削減」を優先する。

メディアも言わない。朝日新聞が自紙が主導した社会改革提言の失敗について陳謝するということはありえない。

そもそもメディアで発言している人々のほとんど全部は自分のことを「社会的成功者」だと思っている。

彼らは「成功者とみなされている人々は偶然の僥倖によってたまたまその地位にいるにすぎない」という解釈よりも、「際だった才能をもっている人間は選択的に成功を収める」という解釈を採用する傾向にある。

そのような自己理解からは「われわれの社会は能力主義的に構造化されており、それは端的に『よいこと』である。じゃんじゃんやればよろし」という社会理解が導出されるに決まっている。

 

つまり、私たちの国では、能力主義的な社会の再編が失敗し、その破局的影響があらゆる分野に拡大しているにもかかわらず、そのことを指摘する人間が「どこにもいない」という痛ましい事態が現出しているのである。