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そのようなリアルでクールな議論を始めるためには、まず「日本は抑止力をハンドルできない」という現実を見すえなければならない。
でも、日本人はそれをしていない。
それをすると、日本が結局戦後67年間、アメリカの軍事的属国であって、主権国家ではなかったという痛ましい現実に直面してしまうからである。
2012年3月2日の内田樹さんのテクスト「抑止力と付加形容詞について」を紹介する。
どおぞ。
在日米軍再編が進んでいる中で、米側が日本政府に沖縄の海兵隊の移転計画を明らかにした。
海兵隊司令部と遠征部隊は沖縄に引き続き駐留するが、陸上部隊の大半はグアムなど国外移転する。
06年のロードマップでは司令部も国外転出の予定であったが、軍備拡張を進める中国を牽制するかたちで司令部のみ残留ということになった。
これについて3月2日の毎日新聞は「日本側は、陸上部隊の国外移転で抑止力が低下しないかなどを慎重に見極めている」と書いている。
徴候的な書き方だと思う。
「抑止力が低下しないか」が問題だと言う。
抑止力とは何のことか。
ふつうは、こういう文脈では使わない言葉である。
英語ではdeterrent と言う。「引きとどめるもの、妨害者」というのが原義だが、 軍事用語では要するに「核兵器」の迂回的表現のことである。
あまりに迂回的なのでわざわざ「核抑止力」(nuclear deterrent)と表記されることもあったが、この場合の「核」は単なる形容詞ではない。
単なる形容詞であれば、「核抑止力」以外に「空母抑止力」とか「ヘリコプター抑止力」とか「竹槍抑止力」といったparadigmatic な選択肢が横並びであってよいはずだが、そのような言葉は存在しない。
「核抑止力」という場合の「核」のような語のことを文法では「名詞のうちに含まれる性質を表す付加形容詞」épithète de natureとして教える。
La blanche neige (白い雪) le triste hiver (暗い冬)la vaste mer(広い海)の類である。
レヴィナス老師がその著書にDifficile Liberté 「困難な自由」というタイトルを付したのもその一例である。師はこの世にFacile Liberté「容易な自由」というものが存在しえないことを教えているのである。
「核抑止力」も私の知見の及ぶ限りでは épithète de nature の一つであり、それ以外の使われ方をしたことがない。
という基礎的な知識の上にこの記事を読むと、私たちは日本のマスメディアが在日米軍と安全保障について語るときの抑圧とその病態の好個の適例を見ることになる。
「抑止力が低下しないか」というのは、端的に「沖縄に常置してあるはずの核兵器の数が減らないか」という意味である。
核兵器が減ると、中国に対する「脅威」が減殺しないか、という意味である。
そう書けばよいのだが、「書かない約束」になっているのである。
誰との約束か知らないが。
もう一つ、さらに深い抑圧は、この「抑止力」が誰が管理し、誰が行使するものであるかが曖昧にされていることである。
これは日本の政治家や官僚やメディアが安全保障について語るとき必ず発症する病態である。
「核の傘」というのがよい例である。
この表現は実によく用いられる軍事用語であるが、いったい誰が「傘をさしているのか」についてはつねに曖昧にされている。
アメリカ人が「核の傘」を手に持ち、高く掲げて日本やその他の同盟国を覆っている図像を思い描くこともできるし、日本人が自分たちがアメリカから借りた「核の傘」を手にして、その下で安んじている図像を思い描くこともできる。
雨が降ってきたので「ちょっと傘拝借します」「あ、持ってらっしゃい」というのは日常生活でよくある図柄である。
おそらく多くの日本人はそのような絵柄を漠然と選好している。
もともとは「あちら」の所有物なのであるが、今は入り用なので、「こちら」でちょいと拝借している。差すも閉じるも、こちらの自由。
核抑止力の「主体」はわれわれなのだ、と思っている。
少なくとも、「思いたがっている」。
それと同じ「核兵器の取り扱い主体の曖昧化」がこの記事にもそのまま露出している。
「日本側は、陸上部隊の国外移転で抑止力が低下しないかなどを慎重に見極めている」これは読みようによっては、まるで「日本側」が抑止力のハンドリングを担当しているかのようである。中国の軍拡に対する核抑止力の布置については、まるで日本が起案し、実行している「かのように」読める。
「慎重に見極める」のはふつうは抑止力をハンドルしている人間の言い分だからである。
もちろん核兵器をハンドルしているのは米軍である。
日本側はその配置も規模も知らされていない(知らされた上で「黙っていろ」と言われると、これが「密約」ということになって、政権の命取りになることがわかっているからだ)。
だから、「慎重に見極める」というのは、「手をつかねて見ている」ということである。
ある日、米軍が「もう日本から撤収するから、あとの抑止力の手当は自分でなんとかしてね」と言って去って行ったあとのことを何も考えていないということである。
日本には自前の抑止力がない、というのが国防プランを起案するときの前提である。
そこからしか話は始まらない。
じゃあ、自主核武装しようという話も出てくるだろうし、核兵器は結局使えないんだから、通常兵器を充実させて、徴兵制を施行しようという話も出てくるだろうし、何とか必死に善隣外交を展開して、ロシアとも中国とも韓国とも安全保障条約を締結しようという話も出てくるだろう。どのオプションが適切かは、そのときどきの国際関係論的状況と、日本の財政的余力で決まる。
そのようなリアルでクールな議論を始めるためには、まず「日本は抑止力をハンドルできない」という現実を見すえなければならない。
でも、日本人はそれをしていない。
それをすると、日本が結局戦後67年間、アメリカの軍事的属国であって、主権国家ではなかったという痛ましい現実に直面してしまうからである。
それを認めるだけの「心の準備」が出来ていないので、この記事のようなワーディングを誰も「おかしい」と思わない。
この記事は病的である。
そして、これが病的であるということに書いている記者も、読者もまったく気づかないでいるということがさらに病的なのである。
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