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伊丹十三と「戦後精神」 ☆ あさもりのりひこ No.234

つまり、日本人全体が、日本列島の一億三千万人全体が劣化してるから。今の日本は、社会システムとしても、そこに住んでいる人間たちの質そのものも、ゆっくり地盤が沈下するように劣化している。そして、そのことについての痛覚がない。

 

 

2012年7月12日の内田樹さんのテクスト『伊丹十三と「戦後精神」』を紹介する。

どおぞ。

 

 

今日の演題には「戦後精神」と書きましたけども、伊丹十三が、高度消費社会の消費哲学とか商品記号論に似たものを先取りしていたせいで、僕たちは何となく彼を同時代人だと思い込んでいる。でも、そうじゃありません。彼は戦中派なんです。1933年生まれですから。これは、誰と同じかと言うと、江藤淳なんですよね。

江藤淳は32年の12月、伊丹十三は33年の5月生まれです。半年伊丹さんの方が年下です。われわれはそのふたりの顔を思い浮かべるとき、江藤淳というとなんとなく老成したときの顔を思い浮かべ、伊丹十三は若々しい顔を思い浮かべるから、1020も年が違うように思いがちです。でも、彼らは実は同世代なんです。

33年生まれということは、戦争が終わった時に12歳ということです。つまり、戦前の軍国主義の時代に少年期をまるごと残してきた世代だということになります。

前に高橋源一郎さんと、吉本隆明と江藤淳というふたりの戦中派についてかなり集中的に話をしたことがありますが(「戦後批評 吉本隆明と江藤淳 ―最後の『批評家』」、『中央公論』201112月号)、この世代には他には見ることの出来ない、きわだった特徴があります。

彼らより年上で、実際に応召して戦争に行った世代は、ある程度戦争の実情を見てきました。だから、「天壌無窮の皇運」とか「八紘一宇」とったイデオロギーが実は無内容な空語であるということを、兵士の実感として、あるいは生活者のリアリズムとして知っていた。中でも知的な人たちは、この戦争には大義が無いこと、いずれ敗北するだろうということまで予測していた。その戦争の中をともかく生き残って、敗残の祖国でもう一度生活を再建しようと考えていた。そういう人たちにとって敗戦はリアルな経験ではありますが、さまざまな苦労のうちの一つに過ぎません。

一方、僕たち戦後生まれは、戦争に関して何の記憶も持っていない。従軍したこともないし、空襲を逃げ回ったこともないし、飢えたこともない。日本が民主主義になった後に生まれて、右肩上がりの経済の下で、好き放題暮らしてきた。

この戦前派と戦後派のあいだに、戦中派という集団がいます。少年期には戦争の大義を信じ、おそらく20歳になる前に自分は死ぬだろうと覚悟を決めていたのが、ある日、戦争が終わる。昨日まで自分たちを鼓舞していた教師たちや周りの大人たちが、「間違った戦争が終わり、これからは民主主義の時代だ」と言い出した。「墨を教科書に塗らされた世代」です。

この世代の人たちが総じて懐疑的な精神の持ち主になるのは、歴史的事情からすれば当たり前のことです。でも、それは単なる懐疑的というのとは違う。

戦中派の特徴は、10代のある時期まで、ひとつの偏ったイデオロギーの中で育てられてきて、そのような世界しか知らないのに、ある日、あなた方が現実だと思っていた世界は幻想でした。あれは「なし」ということになりましたと宣告されたことです。

戦前派であれば、戦争に入っていく前からプロセスを観察している。だから、「戦争以外の選択肢もあった」ことを知っている。戦争になったときに、鶴見俊輔や丸山眞男や加藤周一のような知性は「この戦争は負ける」と予測できた。そういう人は戦争が負けたときにも、別に天蓋が崩れるような衝撃を感じることはない。「やはり負けたか」と思うだけです。

でも、33年生まれだと、そうはゆかない。満州事変が31年ですから、物心ついたときからずっと日本は戦争状態だった。「戦争をしていない日本」を知らない。すでに始まっていた戦争を日常的に呼吸し、戦争をする国家であるところの大日本帝国の「少国民」であることを自己同一性の一番基本に据えていた。その社会で価値ありとされていたものを自らの価値としていったんは血肉化していった少年たちが、ある日、それを捨てろと言われた。「1945815日以前の自分を切り離して、今日から新しい自分が始まる」といったようなアクロバット的なことができるのか。

僕はこの仕事にどれほど真剣に立ち向かったかによって、この世代の人々の知的なあるいは感性的な深みは決定されたのではないかと思っています。

 

 

僕は以前『昭和のエートス』という昭和人論に、この世代の屈折について書いたことがあります。彼らは戦前に取り残した、おのれの半身を取り残している。少年期の経験も、喜びも、悲しみも、高揚感も、感動も、全部戦前の日本の記憶に貼り付いている。少年期に吸った空気、そこで自然だと思って取り込んできた概念や美や価値は、もう自分の中に受肉してしまっている。それを切り捨てろと言われても、それを切り捨てては、自分というものが立ちゆかない。「戦前に残されたおのれの半身のうち、戦後社会においてもなお生き延びるに足るものは何か?それなしでは自分が自分でいることのできないぎりぎりのものは何か?」それを探し出して、何とかして、それを戦後の半身に縫合しなければならない。

この仕事の模範は年長世代のうちに見出すことはできません。周りを見回しても、これを完遂せずには自分が立ちゆかないと思い詰めているのは、自分と年齢の変わらないものしかいない。でも、みんな子どもたちですから、その中に、「こうやって私は切断された少年期の半身を奪還して戦後に縫合してみせた」という成功事例を語れるものはまだ一人もいません。だから、彼らは自分ひとりで、独力で、そのやり方を発見しなければならなかった。

大人たちは「軍国主義教育はすべて間違っていた。これまで君らが習ったことは嘘だった」と言う。でも、そんな言葉に軽々しく従うわけにはゆかない。軍国少年であった少年期において自分が信じたことのうちには、本当に人間がそれを信じ抜くに足ることも、人間が生涯をかけて守り切るべきもの、そのために死んでもいいというようなものも、含まれていたはずだからです。それを戦後社会は「全否定せよ」と言う。誰もそれを守ってくれない。だったら、少年たちが自分で自分の過去を守るしかない。

そういうふうに考えたのが、戦中派の特徴だと僕は思います。その使命感は、先行世代にも後続世代とも共有されていない。この固有の世代的使命を感じていた集団に伊丹十三もまた属していた。そして、彼のいささかわかりにくい特性の多くは、この世代的な条件づけによっていくぶんかは解釈可能である、というのが僕の仮説なのです。

 

例えば、江藤淳の戦後の仕事を見ると、明らかに戦中派的なこだわりを僕は強く感じる。

60年代から後の江藤淳がもっとも心血を注いだ仕事の一つは戦後日本におけるGHQによる検閲の検証でした。江藤は大学の60年代にサバティカル(長期休暇)を使って、ワシントンに行き、ほとんど取り憑かれたように公文書館に通って、GHQの占領期日本における検閲の記録を精査しました。その情熱はほとんど「妄執」というのに近い。

江藤が明らかにしたのは、占領期にGHQが日本の出版メディアに対して徹底的な言論統制を行っていたことです。「言論統制が行われている」という当の事実までが言論統制されていた。だから、占領期の日本人は行き交う言論が「検閲済み」のものだということさえ知らなかった。戦時中でも、人々はメディアの言葉が「検閲済み」であり、戦争指導部にとって不都合な情報はそこには開示されないということを知っていました。でも、占領期の検閲はさらに徹底的だった。そして、日本人はそのことを知らなかった。占領軍が去ったあとでも、それについては知りたがらなかった。江藤はその欺瞞性を暴き出しました。

この研究に学問的にどんな意味があるのかは、僕にはよくわかりません。江藤淳以後に、この研究を継続した人がいるのかどうかも知りません。江藤の学的貢献が政治史的に重要なものとして敬意を持たれているのかどうかも知りません。たぶん後続世代には、江藤のこの執念はうまく理解できなかったのだと思います。

僕は、この検閲研究は戦中派世代からの悲痛な異議申し立てだったと思います。「戦前においてわれわれはイデオロギー教育を受け、強いバイアスのかかった教育によってものの見方を歪められていた。だが、戦争が終わり、言論統制もイデオロギー抑圧も取り去られ、ついにわれわれは自由に語れるようになった」という物語を江藤たち少年は戦後、大人たちから聴かされて来ました。けれども、そう言って民主主義の旗を振っていた人々もまた戦前のイデオローグと同じなのではないのか。日本人は、815日以前は軍部によって言論統制され、それ以後は、GHQによって言論統制されている。民主と自由を謳歌しているつもりで、「アメリカによって検閲済みの言論」だけを選択的に語ることを強いられている。そして、それに気づかないでいる。それは、戦前に軍の言論統制に屈服したことよりもさらに恥ずべきことではないのか。江藤淳はそう言いたいのだと思います。

あたかも十全に自由を享受しているかのようにうれしげな戦後のリベラリストたちの言説に対する江藤のこの異議申し立ては、その攻撃が向けられているところだけを取り出して見ると、かなり反動的なものに見えます。でも、実際には、これは右とか左とかいう党派的な差別とは無関係な仕事だったのではないかと思います。

江藤淳は彼自身の少年期の言論空間を「工作されたものだ」として全否定した戦後のリベラリストに対して、「あなたたちが自由に語っているつもりの言説空間もまたGHQに工作されたものではないか」と言い立てている。つまり、江藤が言いたいのは、「815日に本質的な切断線はない。日本は敗戦の前も後も地続きなのだ」ということです。

江藤淳は必ずしも、そこから「だから日本人はダメなんだ」という総括的な批判を導き出したわけではないと思います。江藤淳という一人の生身の人間にとって、815日で日本がいきなり別の国になったわけではない。国はそのまま続いている。戦前の日本にあったものは、美しいものも、醜いものも、価値のあるものも、無価値なものも、かたちを変えはしたが、戦後日本にも生き延びている。デジタルな切断線を引いて、「ここから向こうはもう終わった時代の、もう存在しない社会だ。切断線からこちらだけがリアルで、線の向こうはアンリアルだ」と言う戦後リベラリストの健忘症を江藤は許せなかった。これもまた政治的に切り離されたおのれの半身を何とかして戦後日本の自分の半身に縫い付けようとする痛々しい外科手術のようなものではなかったのかと思います。

 

「臥薪嘗胆、捲土重来」、そういう屈託した心情は、江藤淳にも吉本隆明にも、伊丹十三にも、出方は違っても、戦中派の知識人たちの中には共通してあるように思います。というのは、戦争に負けた国の国民たちが、戦後まず口にすべき言葉は、原理的には「次は負けない」という言葉のはずだからです。

「今はしばらく苦しい思いをしているけれど、あともう少しがんばって、捲土重来を期すべし」。「次は負けない」というマインドでありさえすれば敗戦国民のモラルは決して劣化したりはしません。戦争は、すれば必ず勝つ国と負ける国が出る。敗戦国になる確率は50%です。歴史上のすべての社会集団は敗戦を経験している。百戦無敗なんていう国は存在しません。だから、負けたあとに、どうやって国を再建するのかという作業は、リアルかつプラクティカルな課題であって、別に妙にいじけたり、パセティックになったりするものじゃない。けれども、世界軍事史上、日本ほど負けていじけた国は珍しい。日本の負け方はちょっと尋常じゃありません。

そのことが「おかしい」と多分、戦中派の人たちは心のどこかで感じていたのではないかと思います。戦争に負けるというのは、誤解を恐れずに言えば、よくある散文的な事実にすぎません。だから、負けたら、「なぜわれわれは負けたのか」についてリアルでクールな分析をすればいい。失敗から学んで、有意義な教訓をそこから引き出してゆけばいい。軍略のどこに問題があったのか、社会システムのどこに欠陥があったのか、社会倫理や宗教やイデオロギーのどこが機能不全だったのか。敗戦の原因を摘抉して、問題点を補正し、「次は負けない」ように国家制度を設計してゆく。それが、本来であれば、敗戦国の一番基本的なマインドなわけです。

そのプロセスで「永世中立」とか「戦争放棄」という戦略が提言されるということも十分にありうる。「次は負けない」、「二度と負けない」ためには「二度と戦争をしない」というオプションはきわめて合理的なものだからです。でも、日本の戦後の平和主義というのはそういうものではありませんでした。「次は負けない」ために、敗戦をもたらした国家システムの瑕疵を徹底的に検証し、吟味した末に、振り絞るようにして選び取られた「戦争放棄」ではありません。「もうしません」と頭を下げることで罰を逃れようとしていたら、「もうしません」という「言質」を看板にして首から下げろと命令された。そういう「戦争放棄」です。だから、そこには深みのある思想がない。人間と国家の運命についての熟慮もない。

戦中派の一人として、伊丹十三が納得のゆかなかったのはその点ではないかと思います。戦争に負けたことはしかたがない。でも、こんな負け方はないだろう。なぜ、もっときちんと負けられなかったのか。負けた日本社会の欠点を洗い出して、それを総点検し、改善すべきところは改善するということをしないのか。

戦後の日本人の戦争についての歴史的総括というのは、きわめて単純で、「全部間違っていた」と「全部正しかった」のふたつしかありません。「よいところはよかったが、悪いところは悪かった」という、ごく合理的な判断を戦後の日本人は採ろうとしなかった。戦前の日本においても、こういう制度や、こういうルールは「よいもの」だった。だから、残さなければならない。これとこれは日本の国力を殺いだ「よくないもの」だったので、補正を要する。そういう一度クラッシュしたシステムを再起動するためのもっと「当たり前」のことを日本人はしませんでした。

なぜ、当たり前のことができなかったのか。それは、「負け方があまりにもひどかった」からです。常軌を逸してひどい負け方をした。あまりにひどい負け方をしたので、戦前戦中の日本社会の中に、多少でも「生き延びるに耐えるもの」があるようには思えなかった。それほどひどい負け方をした。

とにかく日本の伝統的な美質は洗いざらい捨てられた。それと同時に、日本をこのような歴史的大敗に導いたところの日本人の惰弱、無責任、自己規律のなさ、集団主義、付和雷同・・・そういう倫理的な質に関する踏み込んだ批判もやはりなされなかった。「一億層懺悔」というのはそういうことですね。「負けたことはわかった。もう逆らわない。だから、もうこれ以上は責めないでくれ」ということです。

伊丹十三は、そのような戦後日本の精神的堕落を前にして、「誰もその仕事をする気がないなら、オレがやろう」と思った。僕はそんな気がするんです。大日本帝国敗戦の総括を単身で行おうとした。どのような日本人の国民性格の脆さが敗戦を導いたのか、それをどう補正すれば「次は負けない」ような日本を再建できるのか。それを誰も考えようとしないなら、オレがひとりで考える。伊丹十三はそう思ったのではないか。

 

『ヨーロッパ退屈日記』を通じて伊丹十三が高く評価しているのは、ひとつは、ヨーロッパ人の自国の文化に対する誇りです。自分の国の美しいものに対して全身で守ろうとする気概、これを繰り返し称えている。

それは第一には、「クラフトマンシップ(職人芸)」というかたちで示される。これがこの本ではいちばん多いですね。すばらしい鞄や靴やカメラや洋服を作る、腕のよいアルチザンたちの仕事の質に対して、伊丹十三は素直な敬意を示します。この職人たちの仕事の質を担保しているのは、社会全体の「質の高いものに対する敬意」ですね。社会そのもののうちに、質の高い手仕事に対する敬意が根づいている。そして、そのような技芸を守り抜こうという高い職業意識を持った人々がいる。そのようなクラフトマンシップと、それを守っている文化に対する伊丹十三の真率な敬意、それは行間にあらわれている。

高度消費文化の中で現れてきたカタログ的情報は、商品をもっぱら記号としてとらえました。自分の流行感度の高さとか、エッジの立ったセンスの良さを誇示するために人々は血眼になって商品を選択する。でも、『ヨーロッパ退屈日記』における「もの」の紹介は、そうではありません。伊丹十三が評価するのは、自分たちが国民的に共有している文化、父祖から伝えられてきた伝統的な技芸に対する忠誠心と敬意です。そういうものに触れると伊丹十三の筆は震えるわけです。そして、それが必ず返す刀のように「なぜ、日本人はこれができないんだ」といううめきに近い言葉で出てくる。

 

そこで、最初に僕が振ったテーマに戻ります。「なぜ伊丹十三についての包括的な、全体的な論というものが成り立たないのか?」

エッセイについてであったり、あるいはデッサンについてであったり、映画作品についてであったり、タイポグラフィについてであったり、個別的な彼の仕事に関しては、きちんとした批評の言葉が存在します。彼の仕事がきわめて質の高いものであり、それまでの常識を打ち破った大胆なものであるということは、繰り返し言及されています。でも、その全てに通底している、伊丹十三の根本的な趨向性というか志向性、「伊丹十三はどこに向かおうとしているのか」ということについて問うた人はあまりいない。でも、僕は彼がめざしていたのは、思いがけなく素朴なもののような気がするんです。「日本の伝統的なものの中の、質の高いものに対して繰り返し敬意を表する」ということ。それではないかと思います。

日本に限らず世界のどの社会についても、そこで「人々が守ろうとしているもの」、父祖から受け継いできた伝承や技芸に対する配慮と敬意。そういうものを政治や市場に委ねない決意。それは自分たちの共同体の「宝」なのだから、無言で引き継いでいかなければならない。そういう強い志を僕は伊丹十三の文章から感じます。

だから、彼が最も深く憎むものというのは、惰弱さ、自己規律のなさ、欲望や怠慢や無能にずるずると譲歩してしまう人間的弱さではないかと思います。とくに「貧乏くささ」。「貧乏くさい」というのは「貧乏」とは違います。「貧乏」というのは端的にひとつの状態ですが、「貧乏くさい」というのは、その状態をごまかそう、それを隠蔽しようとして、まるで貧乏ではないかのようにふるまうのだが、その「貧乏を隠そうとする作為」のひとつひとつがかえって貧しさを露呈してしまう。そういうありさまを言います。それこそが戦後日本人の最悪の部分だと伊丹十三は思っている。それについて書かれた箇所は無数にあるわけですが、とりあえず代表的なところを一つだけ選んでみます。

 

「わたくしは、過去に、随分貧乏してきたから、貧乏というものは嫌いである。貧乏そのものは何とも思わないが、貧困に由来するもの、つまり『貧ゆえの』という感じがやり切れない。

地下鉄などという愚劣なものには、一生乗りたくない。国電もいやだ。タクシーさえも大嫌いである。折り畳み式の蝙蝠(こうもり)傘、和式便所の蓋、電話の呼び出し、熱海へ一泊旅行に出かけた隣の小母さんから、小田原かまぼこの御土産を貰うこと、プラスチックの麻雀牌、こういうもの一切がわたくしは大嫌いだ。(・・・)

靴を磨くための天鵞絨のきれなんかポケットにしのばせている。折り畳みブラシなんか持っている。そうして会社の退けどきなぞ、チャッチャッと馴れ切った手つきで、器用に靴を磨くのである。

犬というとスピッツを飼う。弗入れ、というのか、鞣し革を二つ折りにして、真中にクリップをつけている。(・・・)車を持っていない筈だのに、あるいはダットサンに乗っている筈だったのに、どういうわけか、ベンツのマークのネクタイ留めをしている。」(142-147頁)

 

こういったありようを総称して、伊丹十三は「ミドル・クラス」と呼ぶことを提案しています。

 

「ミドル・クラスとは、即ち中産家庭である。小金がありながら、趣味低俗である。本当の贅沢を知らないという点では、われわれ、その日暮らしの貧乏人に劣るのである。犠牲を払わずに贅沢をしようとするから、贅沢の処理が何とも中流でミミッチクなってしまう。」(145頁)

 

貧しいことは恥ずかしくない。恥ずかしいのは貧しいことを隠そうとすることである。言葉を換えれば、敗戦国民であることは恥ずかしいことではない。恥ずかしいのは敗戦国民であることを隠そうとすることである、ということになります。敗戦国であり、それゆえ国防についても外交についても安全保障についても主権国家としてのフリーハンドを持たない日本が、にもかかわらず英米仏露中と対等の独立国・主権国家であるような顔をするから、「何ともミミッチクなってしまう」。伊丹十三はそう言いたかったのではないでしょうか。

今、2011年のこの時点に、もし伊丹十三氏が生きていたら、日本の現況に対してどんなコメントをするだろう、と僕は時々考えます。今日も考えました。たとえば、先の大阪ダブル選挙の帰結について、「伊丹さんコメントしてください」って聞いてみた場合に、どんなことを彼は語るだろう…たぶん、吐き捨てるように「貧乏くさい選択だね」というコメントを下しただろうと思います。

人間が、自分自身の弱さや非力、無能を認めること、それは必要なことなんです。そこからしか始まらない。でも、そこに安住してしまって、そのポジションから、「私はこんなに苦しんでいる」とか「私はこんなに差別されている」とか「私はこんなに弱い」ということをアピールして、「誰か悪いやつがいるに違いない」、「何とかしてくれ」と泣訴するのは恥ずかしい。だが、「社会を何とか変えて欲しい」というコメントを有権者たちが平然と口にし、それをメディアが無批判に流す。ここはあなたたちの自分の国ではないのか。ひどい国だと思うなら、自分で何とかしようとするのが国民ではないのか。「私はこのひどい社会の、ひどいルールのせいで、ひどい目に遭っている。誰か、私に代って何とかして欲しい」というのは大人の市民の言いぐさではあるまい。たぶん、伊丹さんならそう言うと思います。「一体、男の誇りはどこにあるのか。男ならやせ我慢で押し通すべきではないか。忍の一字、これがダンディズムというものではないか。」(148頁)と言うのではないでしょうか。

今ご存命であれば、「日本人はここまで誇りをなくしたのか」と深いため息をつくだろうと僕は想像します。なぜ、伊丹十三の論が立てられないのかというと、それが大きな理由であるような気がします。

 

 

つまり、日本人全体が、日本列島の一億三千万人全体が劣化してるから。今の日本は、社会システムとしても、そこに住んでいる人間たちの質そのものも、ゆっくり地盤が沈下するように劣化している。そして、そのことについての痛覚がない。「何とかしなければいけない、もう少し日本人は自分たちの持っている中の、限りある資源の中の残されたものをもう一度磨き上げて、そこを足場にしてもう一回踏ん張んなきゃいけない」というような言葉を誰も口にしない。みんなぼんやり口を開けて、自分自身の非力さ、社会的な無能、あるいは幼児性、そういうことを看板に掲げている。自分はこんなに非力です、こんなに幼児的です、こんなに社会的に訓練されていません、仕事もできません。そういうことを前面に押し出して、「なんで私はこんなになってしまったのでしょう。誰か、何とかしてください。ひどいじゃないですか、こんな目に遭わせて。」そういう語り口をする人々が現におり、それを誰も「おかしい」と言わない。弱者の泣訴をそのまま「正義の訴え」としてメディアは報道する。黙って、やせ我慢で、苦難に耐えて、社会を支える仕事をしている人間をメディアは組織的に無視する。泣き声を上げる人間の言葉だけが報道される。

今の日本では、幼児的である人間に向かって「君は幼児的だ」って言うことは批判として成立しないんです。「子供でなんで悪い!」と言う言葉が通る社会になっている。

戦後ずっとそうなんです。60年代から伊丹十三はそういう流れに気づいていた。そして、それをなんとか食い止めようとした。伊丹さんが、エッセイやテレビ番組やCMや雑誌や映画つくりなどさまざまな活動を通じてしようとしていたのは「日本人全体を教化する」という企てではなかったかと思うのです。

エッセイのいくつかをお読みになれば気がつくと思うんですけど、伊丹十三の文章はまっすぐ読者に向かって「みなさん」と呼びかけていますね。主題はさまざまで、場合によっては、ずいぶん趣味的なことであることもあります。でも、自分の言いたいことを読者は必ずや理解できるはずであるという前提で書かれている。読者の知性に対する敬意が前提されている。日本人なら私の言いたいことがわかってくれるはずだという祈りのようなものが込められている。

『ヨーロッパ退屈日記』に貫流しているメッセージは、「日本人よ、誇れるものは誇り、恥ずべきことは恥じよ」という、ごくまっとうなものだと僕は思います。でも、今の日本には、この「まっとうな戦中派の大人」から告げられる言葉を受け止める素地が存在しない。だから、伊丹十三についての論が立てられない。

 

僕たちの社会全体が、知性的にも感性的にも倫理的にもゆっくり劣化している。だから、彼の文章を読んでいても、この社会的趨勢そのものに対する批判を読み込むことがあまりに苦痛なので、それは読まない。その代わりに、伊丹十三の趣味のよさであるとか、批評の切れ味といったところを、あたかも完成度の高い美術品のように玩味しようとする。でも、行間から染み出してくるメッセージはそのような審美的なレベルのものではないと僕は思います。もっとずっと実存的に、われわれが襟を正し、膝を揃えて座ることを求めているように僕には思われます。