〒634-0804

奈良県橿原市内膳町1-1-19

セレーノビル2階

なら法律事務所

 

近鉄 大和八木駅 から

徒歩

 

☎ 0744-20-2335

 

業務時間

【平日】8:50~19:00

土曜9:00~12:00

 

グローバルリスクについて ☆ あさもりのりひこ No.236

言語は政治である。

そして、英語は覇権をもった言語である。

 

 

2012年7月15日の内田樹さんのテクスト「グローバルリスクについて」を紹介する。

どおぞ。

 

 

常磐大学のこども教育学科の新設記念の記念講演で、学校教育とグローバルリスクについて話してきたら、翌朝の毎日新聞に西水恵美子さん(元世界銀行副総裁)がグローバルリスクについて書いていた。

西水さんはブータンが人口70万の小国であり、かつ多民族・多言語国家でありながら、よくその国民的統合を保ち得たのは、先王雷龍四世の国民国家観が堅牢だったからだとみている。

王は1989年の勅令にこう記している。

「国家固有のアイデンティティーを守る以外、独立国家の主権を擁護する術を持たない。富や、武器、軍隊が、国を守ることはできない。(・・・)異邦文明を避け、我らの文明を献身的に責任を持って慣行とせねばならない。」

よく知られた「国民総幸福」(Gross National Happiness)という概念はこの王の提唱したものだが、「文明の持続的発展を国政の中心に置く」ものである。

日本の国民国家としての危機はまさにこの「国家固有のアイデンティティ-」を企業収益の増大のために、ほとんど捨て値で売り払いつつあることによる、というのが西水の診断である。

「日本にはその逆、政治と経済の低迷に後押しされる人材流出が国家経済を空洞化するリスクがある。(・・・)この数年来、スーパーシチズンという呼び名の国籍を超越する中産階級が、世界中で増えている。人作りが国作りではなくなる21世紀のグローバルリスクだ。その到来にわが国の政治家は気づいている様子はない。」(毎日新聞、715日)

私が昨日の講演で日本の「グローバルリスクへの無自覚」の典拠として引いたのは「産学官連携によるグローバル人材育成推進に関する当面の考え方」と「第三回国家戦略会議議事要旨」と「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」という三つの政府文書である。どれもネットですぐに検索することができるので、ぜひ時間を作って読んで頂きたい。

例えば、「英語が使える日本人」の前文はこうである。2003年という古い日付のものだが、それだけにグローバルリスクへの「無自覚」があらわに露呈していることがわかる。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を越えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。さらに、地球環境問題をはじめ人類が直面する地球的規模の課題の解決に向けて、人類の英知を結集することが求められています。こうした状況の下にあっては、絶えず国際社会を生きるという広い視野とともに、国際的な理解と協調は不可欠となっています。

また、グローバル化は、経済界のみならず個人の様々な営みにまで波及し、個々人が国際的に流通する商品やサービス、国際的な活動に触れ、参画する機会の増大がもたらされているとともに、誰もが世界において活躍できる可能性が広がっています。」

書き写しているだけで気が滅入ってきた。

典型的な官僚的作文だが、官僚的作文はしばしば細かい査定を恐れるあまり、査定者たち(今の場合なら、政治家と財界人)を共軛しているなまぐさい欲望については、これを剥き出しに再現してしまうことがある。

これはその好個の適例である。我慢してもう少し書き写す。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々の間をつなぐ国際共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です。」

「その一方で、現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないため、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないという事態も生じています。また、同時に、英語の習得のためには、まず国語で自分の意思を明確に表現する能力を涵養する必要もあります。」

これくらいでよろしいだろう。

この文書は「経済、社会のグローバル化」について書きながら、「政治」については一言の言及もない。

経済のグローバル化が国民国家の先行きにどのような影響を及ぼすことになるのかということについて、国民国家の中央省庁の人間が「何も考えていない」のである。

「国際的な英知の結集」のために必要なのは、英知であって英語ではない。

英語で発言できる人間以外には「英知の結集」参加資格を認められないというルールは「英語を母国語とする話者」に国際社会におけるデシジョンメイカーとしての圧倒的なアドバンテージを認めるということであるが、これは誰が考えてもアンフェアなルールである。

英語が国際共通語になっているのは、イギリス、アメリカという二国がこの200年世界のスーパーパワーとして君臨してきたという歴史的条件がもたらしたもので、彼らが母語を国際共通語にしたがるのは、「母語がそのまま国際共通語である国民」は外国とのビジネスでも国際会議でも国際学会でも圧倒的なアドバンテージを握ることができるからである。

言語は政治である。

そして、英語は覇権をもった言語である。

「覇権言語」を母語とする人間はその事実からできるだけ長期にわたって政治的・経済的・文化的なアドバンテージを取り出そうとする。

そういうものである。

戦勝国の国語が国際共通語になる。

戦勝国民は世界中どこにいっても、Is there anyone who can speak English? といえば用が足りる。誰も返事をしなければ、「けっ、とんでもない未開人の国に来ちまったぜ」とつぶやけばよい。

敗戦国や旧植民地の人間たちは、母語の他にもうひとつ英語を学習しなければならない。それに要するすべての時間は「ハンディキャップ」なのである。

今朝の同じ毎日新聞の「余録」には、明治期の留学生たちがどれほど骨身を削って勉強したのかが誇らしげに紹介してあった。

小金井良精(外の義弟)はドイツに留学して医学を学んだ。彼に先んじて三人の留学生がドイツに送られていた。いずれもドイツ人の教授が感嘆するほどの成績を収めたが、一人は体調を崩して学業半ばで帰国、残る二人は卒業はしたが数年を出ずして早世した。

これを「余録」は「明治の留学生の気迫と勉学心」だと称えるが、彼らの命を縮めたのは、「ドイツ語を母語としないためにドイツ人学生よりも圧倒的な不利な条件で勉強することを強いられた」という事実である。

命を縮めることが「当たり前」だと私は思わない。

繰り返しいうが、言語政治というのは、国際共通語を母語とする国民が有利になるようにルールを定めたアンフェアなゲームである。

それが現実なのだから、そこに命を削って参加することは敗戦国民・「後進国」民にとっては不可避の選択である。

だが、それでも「これはアンフェアなゲームだ」ということは歯を食いしばっても言い続ける必要がある。

それを文科省が一言も言わないのは、「敗戦国民は不利なルールでプレイしなければならない」ということがあまりに血肉化してしまったので、それが当たり前だと彼らが思っているからである。

主権国内に外国軍の基地が戦後67年間も常駐していることが「変だ」と思わない感受性の鈍麻とこの英語観は同質のものである。

この文書はグローバル化について語りながら、グローバル化を推し進めている「政治」がどのようなダイナミクスで作動しているのかについて一言も語らない。

語らないのではなく、語れないのである。

それは、この文書を起草した人間が「グローバルな政治についての決定過程にわれわれ日本人はどうせ関与させてもらえないから」という敗戦国民・植民地人の諦観を深く内面化させているからである。

そして、そのビハインドは「日本人の多くが、英語力が十分でないため、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないという事態」から説明されている。

「敗戦国民が戦勝国民の国語をうまく運用できないせいで『制限を受けたり』『適切な評価が得られない』でいるので、敗戦国民はこぞって戦勝国の国語をがんばって勉強しましょう」という植民地マインドそのものが国際社会における侮りを生み出しているのではないかという反省はここにはかけらもない。

もし、日本人が植民地を支配しているときに、現地の政府が「日本語力が十分でないために、日本人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないという事態」を打開するために、「日本語が使える植民地人」育成のための行動計画を起案したら、日本人はどう思うか。それを想像してみてほしい。

きっとにやにや笑うと思う。

「まあ、せいぜいがんばって勉強してくれよ」

 

長くなったので、他の二つの文書の精査をするのはもうやめるが、いずれも「グローバルな競争」というゲームを「誰かがもう始めてしまった」ので、「オレたちは『バスに乗り遅れない』ために必死になるしかないんだよ」という悲鳴に近いものを私は聴き取った。

「バスに乗り遅れるな」というのは日本人を鼓舞する最も効率的な言葉であるが、そこには「バスの行き先を決めるのも、バスを製造するのも、バスを運転するのも私たちではない」という深い諦観がこびりついている。

人類がどこにゆくのか、その行き先を誰が決めるのかという問題について、それは自分ではないかということについて一瞬も考えたことのない人間だけが「バスに乗り遅れるな」という言葉に絶望的な切迫感を感じるのである。

人口70万人のブータン国王は、「バスの行き先」について個人的なアイディアを語った。それに全世界が耳を傾けている。

「人類の英知」というのは、こういう場合に用いるのである。

「人類の英知を結集する会議」の参加条件を満たすために、まずベルリッツに通うというような発想をする人間には、誰も意見を聴きに来ない。

 

永遠に。