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コピーキャット社会 ☆ あさもりのりひこ No.242

2001年68日,大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校で小学生無差別殺傷事件が発生した。

2008年68日に東京都千代田区外神田(秋葉原)で通り魔殺傷事件が発生した。

この秋葉原事件について,今から8年前の2008年7月13日に内田樹さんが書いたテクスト「コピーキャット社会」を紹介する。

どおぞ。

 

 

私はこの事件についてはすでに数回話しているが、そこで繰り返し述べたのは、これがきわめて「記号的な」事件だ、ということである。

犯人自身が「ワイドショー独占」と書いているように、「この事件は何を意味するのでしょう?」という問いかけがメディアを賑わせることそのものを目的として行われた。

そして、メディアはその目的通りに動かされている。

彼が秋葉原で人を殺したのは、人を殺すことを目的としてではない。(無差別殺人というのは、「殺すことが目的ではない」ということである)。

そうではなくて、「この殺人はいったい何を意味しているのでしょうか?」という問いを人々が立てることである。

つまり、「この殺人はいったい何を意味しているのでしょうか?」という問いを立てた人々は自動的に「事後従犯」となるように犯行は構成されているのである。

私はそれを「悪魔的」なものだと思う。

その「悪魔性」は犯人に内在するものではなくて、私たちの社会そのものが分泌している、ということが私をいっそう気鬱にさせる。

犯人が「こんなこと」を思いついたのは、「前例」があるからである。

事件は7年前の同じ日にあった大阪教育大学池田小学校の宅間守の無差別殺人事件(児童8名死亡、児童13名、教諭2名負傷)の「コピー」である。

レンタカーで人混みに突っ込み、暴走して人をはね(2人死亡、5人負傷)、その後車から降りて両手に包丁をかざして、無差別に人を刺した(3人死亡、5人負傷)という犯行の形態は1999年9月29日のJR下関駅構内で起きた「下関通り魔殺人」の「コピー」である。

その下関通り魔殺人は、その3週間前に起きた「池袋通り魔殺人」の「コピー」である。

この事件では両手に包丁とハンマーを持った男が「むかついた。ぶっ殺す」と唸りながら、無差別に10名を襲い、うち女性2人が死亡した。

ほかにも犯人が「参照」した事例はいくつかあるはずである。

これは文学における「歌枕」と似た構造を持っている。

歌人がある名所旧跡を訪れると、とりあえず一句詠む。

すると、その場所に歴代の歌人たちの無数の歌が蓄積する。

あとから来た歌人は、その先行するすべての歌を「参照」して、それに重ね書きするようにして自分の歌を詠む。

そして、その歌を鑑賞する人々は、ある作品が「ふまえている」古歌について、どれだけ網羅的なリストを作れるかによって、それぞれに異なる印象をそこから読み出すことになる。

『笈の小文』で明石を訪れた芭蕉は「蛸壺やはかなき夢を夏の月」と詠んだあと「かゝかる所の穐なりけりとかや」に始まる自作解説を付して、この一句が『源氏物語』、杜甫『岳陽楼に上る』、能『松風』、『平家物語』などをふまえていることを教える。

「物しれる人の見侍らば、さまざまの境におもひなぞらふるべし」

その一句がふまえている古歌や故事来歴について知る人は、その一句から無限の滋味を引き出すことができるであろう。

これが「歌枕」の構造である。

「コピーキャット」の構造はこれと同じである。

ある殺人事件が蔵している意味の「さまざまな境」を知るためには、それが「前例」としてふまえている殺人事件についての網羅的なリストを作成することが求められる。

そして、そのリストが長くなれば長くなるほど、その殺人事件の「メッセージ」は奥行きを増す。

シリアル・キラーは本質的にコピー・キャットである。

「シリアル」という点で、すでに第二の殺人から後は「自己模倣」になるからである。

第二の殺人は「第一の殺人を参照せよ」というメッセージを発信しており、第三の殺人は「第一、第二の殺人を参照せよ」というメッセージを発信している。

そして、そのすべてが「先行するすべてのシリアル・キラーの犯行を参照せよ」というメッセージを発信している。

あなたはいったいいくつの「古歌」を思いつくことができるか?

犯人はそう問いかけているのである。

殺人における「物しれる人の見侍らば、さまざまの境におもひなぞらふるべし」というのはそういうことである。

そして、私たちが犯罪史的に知っていることの一つは犯行の凶悪さは、まさしくその「複製性」と相関するということである。

そこで実際に行われた出来事ではなく、その出来事が「どういう文脈で行われたか、どのような『先行事例』をふまえてなされたものか」という「解釈」のレベルにまっすぐ人々を誘う犯罪こそ私たちが想像しうるもっとも凶悪な犯罪である。

というのは、ある犯罪が「複製」である場合、私たちにとって、そこで何が行われたか、誰が殺されたのか、ということは「とりあえずどうでもよい」ことになるからである。

それはいわば「コピー」における紙質の差やインクの色の違いのような物性レベルのことである。

問題は「何にコピーしたかではなく、何をコピーしたのか」だからである。

殺人を犯し、ゆきずりの人々を害した事件について、私たちはその事件の「意味」を理解するために、そこで起きたこと「そのもの」を視野から排除しなければならない。

被害者がどういう人で、なぜここで殺されることになったのかについてどれほど詳細にわたって情報を集めても、それは犯行の「意味」を理解するためにはまったく無意味だからである。

私たちは事件が何を意味するのかを知るために、死者たちをただの「記号」として、「数字」として、「誰でもよかった死者」として扱うことを強いられる。

このとき死者たちは二度殺されている。

一度目は「メッセージ」を書いた犯人によって、二度目は「メッセージ」を解読しようとする私たち自身によって。

被害者を記号として殺すことで、「二度殺す」という点がコピーキャット的な無差別殺人の第一の特徴である。

第二の特徴はそれ以上に凶悪である。

それは、「コピーキャット的無差別殺人」の場合、犯人は自分がそこに託したメッセージ以上のメッセージを、「自分はそんなことを言うつもりではなかったメッセージ」を読み出されるという「特権」を享受できるということである。

ある殺人事件の犯人が知っている先行事例は限定的である。

けれども、解釈者たちはそこから無限の先行事例を連想することができる。

『中央公論』で佐藤優はこの事件について、こう書いている。

「僕があの書き込みを全編読み終わって真っ先に感じたのは、『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフの発想にそっくりだということ。格差がものすごく拡大した十九世紀終わりのロシアでは、ニヒリズムが蔓延します。神もへったくれもない、人を殺そうが、金品を奪おうが何をやっても勝手だと、実際テロや強盗殺人が多発した。ドストエフスキーはその現状に直面して、自らの中で殺人を正当化する独善的な人物を主人公に、あの作品を書いている。」(「秋葉原事件を生み出した時代」、『中央公論』8月号、83頁)

佐藤と同じように、この事件の犯人について「・・・の発想にそっくりだ」ということを思いつく人間がこのあと続々と登場してくるだろう。その中には犯人がその名前も知らないような歴史的人物や想像上の人物が含まれているはずである。

そして、犯人は「この歴史的犯罪者の21世紀日本におけるアヴァターである」というかたちで繰り返し「解釈」される。

しかし、コピーキャットというのはそもそも「そのような特権を享受すること」そのものを狙ってなされる犯罪なのである。

コピー・キャットが殺人を通じて発信するメッセージには「内容」がない。

「これは記号です。みなさん、解釈してください」というのがそのメッセージの唯一の「内容」である。

そして、「この内容をもたないメッセージは何を意味するのか?」という問いを立てるときに、私たちはすでに事後従犯として、記号の増殖プロセスに積極的に参加してしまうのである。

だから、「この次に起こる、これとそっくりな事件」は、これまでの先行事例よりもさらに無内容であり、さらに記号的であり、それゆえさらに多くの人々による解釈を励起することになる。

私が気鬱になるのはそのせいである。

「歌枕」に立つと、有名無名の人々が歌を詠まずにいられない気分になるのは、そこで詠む歌は、そうでない場所で詠む歌よりも「深く解釈される」可能性が高いからである。

まるで無内容な歌であっても、「これはもしかすると、あまり知る人のいない『あの古歌』をふまえているのではないか」というような「おせっかいな」解釈を呼び寄せる可能性があるからである。

だから、自分が卑小な人間であることに苦しみ、自分を大きく見せようとする人間は、必ず「コピーキャット」になる。

そして、私たちの社会には自分が卑小な人間であることに苦しみ、自分を大きく見せようとすることに必死な人間たちが犇めいている。

コピーキャットによる犯罪の無限の増殖を防ぐために私たちがなすべきことは、事件を「記号的に」解釈することではない。

「記号的に解釈されることをめざしてなされる事件」の発生の構造そのものを解明することである。

では、どうすればいいのかと言われても、私に確たる答えがあるわけではない。

 

とりあえず私に言えることは、「この事件が意味するものは?」という問いがすでに「事件の一部」をなしているという病識だけは持ち続けなければならないということである。