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いじめについて ☆ あさもりのりひこ No.285

現在の「いじめ問題」は、「あるはずのないこと」が起きているのではない。「よくあること」の暴力性と攻撃性が常軌を逸しているのである。ことは「原理の問題」ではなく、「程度の問題」なのである。

 

 

2013年6月7日の内田樹さんのテクスト「いじめについて」を紹介する。

どおぞ。

 

 

学校における「いじめ」とそれに対する対応のありかたについて意見を求められた。

悲観的な話から始めてしまって申し訳ないけれど、「いじめ」に対する即効的な対応策は存在しない。「いじめ」は80年代以降の学校教育を貫通している「教育イデオロギー」の副産物であり、ほとんど「成果」と言ってもよい現象である。

30年かかって作り込んできたものを一朝一夕でどうこうすることはできない。同じくらいの時間をかけて段階的に抑制してゆく気長な覚悟がいるだろう。

私たちが今向き合っている教育現場における「いじめ」現象には「太古的な層」と「ポストモダン的な層」がある。

「太古的な層」は人類と同じだけ古い歴史を持っている。こちらの方は、はっきり言って手の着けようがない。とりあえず「ポストモダン的な層」を「太古的な層」から分離して、それが分泌している悪だけを除去すること、それが私たちにできる精一杯のことである。フロイトが「転移」について述べたように、人類史の彼方に起源を持つ「古い疾患」よりも、私たちがその発生に立ち合った「古い疾患の新版」の方がまだしも制御し易いからである。

 

「いじめ」は「供犠」という儀礼のひとつの変種である。それは「神霊」という概念の発生と同期している。集団に不幸が訪れる。天変地異でも、異常気象でも、不作凶作でも、異族の襲撃でも、集団内部での紛争でも、何か困ったことが起きる。これは神霊の怒りを買ったことの罰である。この罪の穢れを祓うために供犠が行われる。「諸悪の根源」が単一物として存在し、それがすべての悪を分泌している。だから、それを特定し、除去さえすれば社会は原初の清浄と活力を回復する。これが供犠という考え方である。指名されたものは「贖罪の山羊(scape goat)」となり、徴をつけられて集団の周縁に追いやられ、あるいは集団の外部に追放され、あるいは殺害される。

「贖罪の山羊」を追い払っても感染症や病虫害や自然災害に対する科学的効果があるはずがない。でも、それがわかっていながら、人々は供犠の儀礼を手放さなかった。それは供犠には「コスモロジーの効果」があるからである。

供犠はもっともプリミティブな「宇宙観」である。アモルファスな世界にデジタルな境界線を引く。どこでもいい、とりあえず「境界線」を引く。「清らかなもの(fair)」と「穢れたもの(foul)」、「内部」と「外部」、「善」と「悪」の境界線を引く。境界線の選定は本質的に恣意的である。そこに線が引かれなければならない必然性はない。けれども、とりあえず境界線を引いたら気分が少しよくなった。だから、一度やったら止められなくなった。「線を引く」のは人間の本態的傾向である。クロード・レヴィ=ストロースははっきりこう断言している。

「どのようなものであれ、分類は分類の欠如よりも何らかの固有の効力を持っている」(『野生の思考』)

どのようなデタラメな分類であってもカオスよりはましである。人間はそう考える。とりあえず分類する。線を引きさえすれば、そこに秩序が立ち上がる。「昼と夜」とか「生と死」とか「男と女」とかいう分類についても同じである。どれも恣意的な境界線に過ぎない。実際には、世界はすべてアナログな連続体であって、どこにもデジタルな境界線など存在しない。ここから先が昼で、ここから先が夜だというような截然たる境界線は自然界には存在しない。しかし、人間は境界線を引くことを止めない。

供犠は「清浄なもの」と「穢れたもの」を区別することで秩序を制定する仕掛けである。集団に不幸が訪れたとき、「原因不明」というのでも、さまざまな断片的な事象の複合的効果であるという説明でも(たいていの場合はそれが実相なのだが)誰も納得してくれない。それでは「打つ手」を思いつかないからである。

どうしていいかわからない、何から始めていいのかがわからない。それがいちばん困る。でも、「悪いのはこいつだ」という「諸悪の根源」の名指しがあると、話は簡単になる。「こいつ」を叩き出すために何をすればいいのかについて具体的な手立てを考えるという「当面の仕事」ができるからである。人間は何かをして、頭を使い、身体を動かしていると、何もしていないときよりも、生命力が亢進する。「これが諸悪の根源だ」という名指しが可能であるなら、どんなデタラメな境界線でも引いてみる方がまったく引かないより、やることができるだけ「まし」なのである。だから、人類は数万年前から供犠に淫してきた。供犠は問題を解決しない。けれども、問題を前にして「何もしない」より、「何かする」方が生物としての自然にはかなっている。

「いじめ」は供犠の一変容態である。「仲間ではないもの」を名指し、徴をつけ、「穢れ」を押しつけ、集団から排除することで、排除する側の集団成員たちは同質的になり、凝集力を回復する、そういう仕掛けである。集団統合の力学的な働きに限って言えば、それは「クラス対抗リレー」とか「統一学力テストの学校別平均点競争」というようなものとそれほど変わるわけではない。「いじめ」と「競争」は同じ力学的構造を持っている。同一の組織原理の裏と表だと言ってもよい。

学校で何らかのレベルで集団的統合がつよく求められるときには、必ず供犠的な儀礼が行われる。必ず。これは避けられない。子どもたちは誰に教えられなくても本能的に供犠の有効性を知っている。集団の同質性と統合度を高めたいと思うと、子どもたちは必ず集団の同質化を阻む「異物」、統合を邪魔する「特異体」、集団の安寧を脅かす「敵」を特定し、それを排除しようとする。大人たちがしているのと同じことを子どもたちは彼らなりのスケールで再演するのである。

そのとき選ばれるのは何らかのかたちで有徴な個体である。背が低い、太っている、肌の色が違う、言葉づかいが違う、勉強ができない、不器用・・・なんでもいい、何らかの指標で「際立つ」なら、その子どもは「いじめ」の対象になりうる。

現在における「いじめ」論議の最初の「つまずきの石」は「いじめは人間集団には必ず発生する太古的な機制である」という原事実を受け容れないことである。これを「異常」で、「非人間的」なものとみなし、学校内に存在しないことが「ふつう」であるという前提を採ると、問題は最初から解決の糸口を失ってしまう。

現在の「いじめ問題」は、「あるはずのないこと」が起きているのではない。「よくあること」の暴力性と攻撃性が常軌を逸しているのである。ことは「原理の問題」ではなく、「程度の問題」なのである。これを「原理の問題」として取り扱うと、「いじめがまったくない学校」を作り出さなければならない。そうすると「いじめ」があっても、教師や教委がこれを「なかったこと」にして放置し、場合によっては隠蔽するという最悪の事態になる(現にそうなった)。

繰り返し言うが、人間は「清浄なもの」と「穢れたもの」の境界線をどこかで引かないと、カオスから秩序を作り出すことができない。「その方が、カオスのままよりは、まし」だからである。「まし」というのは純粋に計量的な判断である。「よい」のではない。もし境界線を引いて、「穢れたもの」を排除したせいで、かえって集団の統合が崩れ、成員たちの生命力が衰えるのであれば、それはもはや供犠として機能していないということになる。そして、今学校で起きている「いじめ」はそれである。供犠のかたちをしているが、もはや供犠としては機能していない。「いじめ」はどこかで儀礼のために定められた限度を超えたのである。どこで、どう超えたのか。なぜ超えたのか。

 

はっきりした指標は「生け贄」の条件が「有徴的な少数者」に限定されなくなったということである。

現在の「いじめ」はできる限り多くの子どもが「いじめ」の加害者または傍観者となるように作り込まれている。「誰でも、どんなきっかけからでも「いじめ」の標的になりうる。集団の全員が「いじめ」の対象に選ばれるリスクを負っている。リスクが拡散した代わりに、標的として理不尽な攻撃に耐えなければいけない時間はそれだけ短くなる。少しの間だけ我慢していれば、いずれ「嵐」は去って、別の子どもが次の標的に繰り上がり、それまでの被害者は加害者か傍観者のポジションに移ることができる。そういうふうにして標的が一巡して、クラス全員の「手が汚れる」までいじめが拡散する。皮肉な言い方をすれば、「いじめ」は民主化されたのである。

被害が拡散するなら軽微になって結構なことじゃないかと思う人がいるかも知れないが、それは短見というものである。実際に起きるのは、全員が「いじめ」を「誰の身にでも起りうる、日常的な出来事」として容認する立場になるということである。

仮に「いじめ」の被害者となった子どもが、かつて一度も「いじめ」に加担したことも、傍観したこともなく、つねに「いじめ」と正面から戦って来たという場合、この子はたとえどれほど孤立していても「理は自分にある」と自分に言い聞かせることができる。そういう場合になら、人間はかなり長期にわたって理不尽な扱いに耐えられる。意地を張り続けることができる。もちろん、心理的負荷ゆえに、心身の不調や登校拒否といった症状を呈することはあるだろうが、自殺するところまではなかなか追い詰められない。

けれども、一度でも「いじめ」の加害者や傍観者である自分を正当化したことがあるものは、いじめを跳ね返すロジックを持たない。「嵐が過ぎるのを待つ」以外のソリューションを思いつかない。どれほど自分に対する「いじめ」が常軌を逸して執拗であったり、悪質であったりしても、それは「ちょっと、ひどいじゃないか」とは言えても、「間違っている」という批判の立場を採ることができない。「いじめ」の被害者が自分には正義を要求するだけの倫理的権利がないのでは・・・と疑いを持ってしまったら、もうふんばる足場がなくなる。今の「いじめ」では、子どもたちをそのような倫理的な無根拠に追い詰めるメカニズムが作動している。

だから、「いじめ」の解決策として、加害者に厳罰を与えればいいという立場を採る人に私は同意することができないのである。ほとんどのケースで、加害者はかつて被害者であり、被害者はかつて加害者であった。被害者・加害者の二元論的な分類を不能にする力学が働いている。メカニズムそのものが「悪」を生み出しているのであって、「悪い人間」がいるわけではない。倫理意識の例外的に高い子ども以外は誰でもが「いじめ」の加害者や傍観者にならざるを得ないようなメカニズムが現に働いているのである。そこが問題なのである。

今起きているのは、とりわけ邪悪でも暴力的でもなく、ただ倫理意識が弱いだけの子どもがいじめの加害者になって、節度のない暴力をふるうようになったということなのである。なぜ、そのようなことが起きたのか、その歴史的文脈を吟味して、子どもたちが落ち込んだそのピットフォールから彼らを解き放つ方法を考えなければいけない。

子どもたちを何人かつかまえて、一罰百戒的に「みせしめ」の刑事罰を加えても、「いじめ」はなくならない。「みせしめ」のために罰されたクラスメートとそれを逃れた子どもの間に決定的な違いがあるわけではない。罰を逃れたのは「たまたま」に過ぎない。

そういう経験をした子どもたちは、世の中というのは絶えず理不尽な暴力がふるわれるところであって、運悪くその暴力の標的にされたら、黙って耐えるしかないという経験則を深く身体化してゆく。

そういう子どもは弱い。倫理的に弱い。どんな理不尽な要求をなされても、大声でどなりつけられたり、処罰するぞという恫喝を加えられると、崩れるように屈服してしまう。「自分の手が汚れている」と知っているから、自尊感情を支える足場がない。そういう弱さをかかえたまま大人になったものが「自立した、成熟した市民」に育つことは絶望的に困難である。

 

では、「いじめ」を生み出した社会的条件は何か。まことに皮肉なことだが、それは戦後日本の例外的な平和と繁栄なのである。

私たちはあまりに豊かで安全な社会に暮らしてきたので、「集団としての生命力を高める」という課題に対する関心を失ってしまった。「集団としてどうやって生き延びるか」ということが優先的な課題であれば、私たちは集団成員の全員がどうすればそれぞれの個性を発揮し、それぞれの潜在的能力を最大化することができるかを考える。

最前線に放り込まれた兵士たちは生き延びるために、味方の兵士たち全員が高いパフォーマンスを発揮することを切望する。「自分以外の全員が自分より戦闘能力が高い状態」を歓迎する。その方が「自分ひとり戦闘能力が高く、あとは使い物にならない」状態よりも、自分自身が生き延びる確率が高まるからである。そのように状況を認識していれば、誰も集団内部での「競争」や弱いもの「いじめ」に時間やエネルギーを割きはしない。集団的危機に際会した場合には、人間たちは仲間の能力の向上と人間的成長を願う。どう考えても「全員がエゴイスティックで無能な幼児」である集団よりも、「全員がフェアで気配りの行き届いた大人」である集団の方が危機を生き残る確率が高いからである。

現代日本の不幸は、あまりに長期にわたって安全で豊かな社会が続いたために、喫緊の課題が、「集団として生き残ること」ではなく「集団内部での資源の分配競争に勝ち残ること」に変わってしまったことにある。家庭教育も学校教育も、「共生」のためのノウハウを教えることを忘れ、「競争」のための能力を優先的に開発したことにある。

競争では、同一集団内部での相対的な優劣だけが問題になる。入試がわかりやすいかたちだが、偏差値というのは同学齢集団内部でのポジションを示す数値であって、絶対学力とは関係がない。同学齢集団の全員の学力が低下しているときでも、その中で相対的に高いポジションにいれば、偏差値スコアは高い。競争的環境においては「自分が優れている」ことと「競争相手が劣っている」ことは同義なのである。

現代日本人はこの「競争のロジック」にあまりに慣れてしまった。「いじめ」はそれによって常軌を逸して悪質で、執拗なものになった。「いじめ」は競争が導き出した、すぐれて合理的なソリューションなのである。

考えればすぐわかるが、自分の学力を上げることと、級友の学力を下げることでは、費用対効果は圧倒的に後者の方がよい。だから、合理的な子どもたちは、仲間が知性的にも感性的にも成長することを妨げ、市民的な成熟を遂げることを阻むことが「ただちに自分の利益につながる」という考え方になじんでしまう。

集団成員がお互いの能力開発を妨害し合っている集団は、外から見ると、まるで集団自殺を企てているように見える。事実、今の日本の学校では、それに近いことが起きている。「学級崩壊」というのは、単なる怠業や不注意ではなく、合理的に選択された、競争で有利になるためのソリューションなのである。

今、残念ながら、私たちの社会はしだいに豊かでも安全でもなくなりつつある。だから、皮肉なことだが、「いじめ」はこのあたりで底を打つのではないかと私は思っている。子どもたちも、これ以上日本の国力が低下したら、同学齢集団内部での競争では勝てても、他国との競争では生き残れないのではないかという不安を直感的に感じ始めているからである。

他者の学習を妨害することは、閉じられた集団内部での競争に限定すれば費用対効果の高い解だが、「東アジアの若者たち」が就活の競争相手に登場してきた場合や、階層上位の子どもたちが日本の学校を見捨てて中等教育から欧米の学校に留学するようになった場合には(現にそうなっている)、その解に固執することはもはや「緩慢な自殺」どころではなくなる。

このまま学校教育が劣化を続けていった場合、若者たちはその後どうなるのか。低学力・低学歴で自尊感情が低く、権威にすぐ屈服する若者たちは最低の雇用条件で身をすり減らすような労働に従事するほか生きる道がない。

学力の低い若者たちを収容するだけのために高等教育を整備するのは資源の無駄遣いだ(だから大学を減らせ)と言い出した財界人がいる。最低賃金制の廃止を公約に掲げた政党もある。「世界同一賃金」を言い出したグローバル企業経営者もいる。低学力・低賃金労働者の大量発生は、国民国家の未来にとっては悪夢だが、「中国やインドネシアやスリランカ並みの低賃金での雇用を受け入れる若年日本人労働者の群れ」はグローバル企業にとっては人件費コストのカットを約束する夢の雇用環境である。

今の社会の流れの中に「いじめ」の培養基である「共倒れ的競争環境」を何としても緩和させなければならない、子どもたちに集団として生き延びるための「共生の作法」を教えなければならないという動きはほとんど見ることができない。「いじめ」問題を告発し、教員や教委を罵倒し、「いじめの発生した学校」に罰を与えるという「いじめ」構造の再生産を加速するようなことしか政治家やメディアはしていない。

私たちにいったい何ができるのか。効果的な方法を私は思いつかない。最初に書いたように、これは30年かかって日本社会が推し進めてきた教育政策の「成果」だからである。おのれの犯してきた罪の深さにおののくところから始めるしかない。

 

私自身はとりあえず「グローバル資本主義」を「穢れたもの」に認定して、それに対抗する手だてを考えている。ご覧のとおり、これはまさに供犠的手法そのものである。でも、恣意的であれ何であれ、まだ誰もそこに線を引いたことのない場所に「新しい境界線」を引くところからしか知性の運動は開始しないのである。