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言論の自由について再論  ☆ あさもりのりひこ No.328

「私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。私の言うことが正しいので、他人による理非の判断はもとより不要である」と考える人間は「言論の自由」について語る資格がない。

 

 

2015年7月1日の内田樹さんのテクスト「言論の自由について再論」を紹介する。

どおぞ。

 

 

「言論の自由」について思うことを述べる。

繰り返し書いていることだが、たいせつなことなので、もう一度書く。

言論の自由とは

私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。

その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。

ただそれだけのことである。

だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。

私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。

「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件のどこがそれほど重要なのか。

それはこの条件が「敬語で書かれていること」である。

それは擬制的に「理非の判断を下す方々」を論争の当事者よりも「上に置く」ということである。

「私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。私の言うことが正しいので、他人による理非の判断はもとより不要である」と考える人間は「言論の自由」について語る資格がない。

 

かつてフランスで歴史修正主義をめぐる論争があった。

ロベール・フォーリソンという「自称歴史家」が「アウシュヴィッツにガス室は存在しない。なぜなら、それを証明するナチスの公文書が存在しないからである。ユダヤ人は感染症で死んだのである」という奇怪な論を立てた。

その書物の序文をノーム・チョムスキーが書いた。

チョムスキーは「私はこの著者の論に賛成ではないし、論証も不備であると思う。しかし、どのように人を不快にする主張であろうと、それを公表する権利を私は支持する」と書いた。

私はそれを読みながら、つよい違和感を覚えた。

チョムスキーの言葉は論理的には一見正しそうに見えるが、実践的には無理があると思った。

そこには「誰でも自分の言いたいことを言う権利がある」という原理だけが声高に語られていて、なんのためにそのような権利が保障されているのかについての考察が欠如しているように思えたからである。

 

「言論の自由」は何のために存在するのか?

それは「理非の判断をお任せできる人々」を出現させるために存在する。

言論の自由さえ確保されていれば、長期的・集団的には必ずや正しく理非の判定が下る。

というのは事実ではない。

「理非の判定を下しうる人たち」は今まだここにはいない。

だからこそ、その出現が懇請されているのである。

そのために「言論の自由」はある。そのため「だけ」にあると言ってもよい。

 

それは陪審員裁判における陪審員のありように似ている。

陪審員たちは裁判が始まった時点では、まだ理非の判断が下せない状態でいる(裁判長が開廷を宣言したとたんに「はい、被告は有罪」というような陪審員はいない)。

検察官と弁護士がそれぞれの立場から情理を尽くしておのれの推論に理があることを証明しようとするのを陪審員たちは長い時間をかけて黙って聴いている。

そして、その時間を通じて「理非の判断が下せる人」へと自己形成してゆくのである。

ここで検察官と弁護士は「言論の自由」を享受している。

だが、その権利は「理非の判断が下せる人」がより適切に判断を下すことを支援するため「だけ」に賦与されている。

だから、検察官や弁護士には相手に向かって「黙れ」と言う権利がない。

たとえ相手が「間違ったこと」を言っていると思っても、「黙れ」と言うことは許されない。

それは相手の「言う権利」を損なうからではなく、陪審員の「聞く権利」を損なうことによって「理非の判断が下せる人になるプロセス」を阻害するからである。

判定者がより適切に判定できる機会を奪うからこそ、「黙れ」は許されないのである。

「黙れ」と言った法曹はただちに法廷侮辱罪でその場から放逐される。

彼が放逐されるのは、「間違ったこと」を主張したからではない(この処分は発言内容の正否とは関係がない)。

そうではなくて、彼は陪審員たちの「適切な判断を下す能力」を信じなかったがゆえに追放されるのである。

自分が実力で黙らせなければ、「愚かな陪審員たちは、こいつの舌先三寸に騙されて『間違った判決』を下すかもしれない」と思う人間だけが、論敵に「黙れ」と言う。

自分が陪審員に代わって正義の判断を下してやらなければ、陪審員たちは間違った判決を下すだろうと思う人間だけが「黙れ」と言う。

彼に欠けているのは「正義」ではない。

「真実」でもない。

「場の判定力」に対する「敬意」である。

「場の判定力」に対する信認を誓言できないものは、自由な言論の場に立つことが許されない。

だから、言論の自由を求める人間は必ず「場への敬意」を表さなければならない。

必ず。

 

それは野球のプレーボールのときにピッチャーがアンパイヤの投じるボールに帽子をとって一礼するのと同じである。

あれは別にアンパイヤに「ストライクゾーン甘くとってくださいね」とごまを摺っているわけではない。

ボールに対して礼をしているのである。

「野球の神さま、いまからこのグラウンドで私たちはプレーをします。私たちが最高のパフォーマンスを発揮できますように知恵と力をお授けください」と祈っているのである。

 

それと同じである。

陪審員の判定力を信じない人間は法廷に立つことができない。

それと同じように、「理非の判断をくだす方々」への敬意を欠いた人間は「言論の自由」の名において語ることが許されない。

「永遠の真理の名において」語ることや「神の摂理の名において」語ることや「歴史を貫く鉄の法則性の名において」語ることはできる。

どのような権威を呼び出そうと、それはその人の自由である。

けれども、「言論の自由」の名において語ることだけは許されない。

自分がたったいま冒し、遺棄した原理の名において語ることは、その原理を信認している人間全員に対する侮辱だからである。

 

今問題になっているのは、「国民は長期的・集合的には必ずや適切な判断を下すだろう」という「国民の叡智」に対する信認の存否である。

いくつかの新聞を挙げて「つぶれた方がいい」と言った人間はその新聞の読者たちに向かって「おまえたちは新聞に騙されているから、間違った判断を下すだろう」と言っているのである。

「私が代わりに判断してやるから、お前たちは私が『読んでもよい』というものだけ読んでいればいい」と言っているのである。

ここに「理非の判定を下す人々」への敬意を見出すことはむずかしい。

「理非の判断を下す人々」の判定力を信じない人、「自由な言論が行き交う場がなくてはすまされない」とは考えない人たちがいる。

それはしかたがない。

 

けれども、彼らが「言論の自由」を汚す権利を「言論の自由」の名において要求することを私は許さない。