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日本はこれからどこへ行くのか2 ☆ あさもりのりひこ No.350

定常的・惰性的であること、急激には変化しないことが手柄であるような社会制度というものがこの世には存在するのである。

 

 

2016年3月13日の内田樹さんのテクスト「日本はこれからどこへ行くのか」を紹介する。

どおぞ。

 

 

私がそれをしみじみと感じたのは、昨夏の国会前のSEALDsのデモに参加したときである。国会内では特別委員会が開かれ、法案の強行採決をめぐって怒号が行き交い、殴り合いが演じられていた。一方、国会外では若者たちが「憲法を護れ。立憲政治を守れ」と声を上げていた。

不思議な光景だと思った。

私が知っている戦後の政治文化では、つねに若者が「世の中を一刻も早く、根源的に変えなければいけない」と主張し、老人たちが「そう急ぐな」とたしなめるという対立図式が繰り返されていた。だが、2015年夏の国会では、年老いた政治家たちが「統治の仕組みを一刻も早く、根源的に変えねばならぬ」と金切り声を上げ、若者たちが「もうしばらくはこのままでいいじゃないですか」と変化を押しとどめていた。

構図が逆転したのである。

「変わり続けること、それもできるだけ速くかつ徹底的に」ということそれ自体が「善」であるというある種の思い込みが私たちの社会をせき立ててきたが、今その「思い込み」に対する疑念が生じてきたのである。変化に対する膨満感と言ってもいいかも知れない。逆説的な表現だけれど、変化することに飽きるということがあるのだ。「変化しなければならない」という説教をエンドレス再生で聴かされているうちに「そういうお前が変われよ」と言いたくなってくる。それが生物の本性である。

本来なら今よりもっと前のどこかの段階で、「私たちはずいぶんさまざまな変化をしてきたけれど、それはほんとうに必要なことだったのか、適切な選択だったのか、それについて立ち止まって総括をすべきではないか」という提案がなされるべきだったと思う。けれども、誰もそんなことを口にしなかったし、思いつきもしなかった。なぜか。理由は簡単である。メディアはそのような問いを思いつかないからだ。

 

メディアは構造的に「変化の是非を問う」ということができない。メディアにとってあらゆる変化は変化であるだけですでに善だからである。当然のことだが、メディアの頒布している唯一の商品は「ニューズ」である。「新しいもの」、それしかメディアが売ることのできる商品はない。「ニューズのない世界」にメディアは存在理由を持たない。「今日は特筆すべき何ごともありませんでした」というのは、生活者にとってはとても幸福なことであるが、メディアにとっては地獄である。だから、メディアは原理的に変化を求める。変化を嫌い、定常的に反復される制度文物があれば進んで手を突っ込んで「変化しろ」と急かし、場合によっては破壊しさえする。そして、メディアで働く人たちは、自分たちが「変化は善である」という定型的信憑に縛り付けられて、そこから身動きできなくなっているという事実に気づいていない。

私はそれを学校教育の現場で身にしみて味わった。私が教育現場にいた過去30年間、メディアが「学校教育のこの点については『これまで通りでよい』と思う」と書いた記事を読んだ記憶がない。教育に関してメディアは「なぜ、もっと早く、もっと根本的に変わらないのか」しか書かなかった。これは誇張ではない。

だが、学校や医療や司法のような社会的共通資本の最優先課題は何よりもまず定常的であること、惰性的であることなのである。それが生身の人間の等身大の人生を安定的に保持するための装置だからである。そのような装置はそのつどの支配的な政治イデオロギーや消費動向や株価の高下や流行などに左右されてはならない。定常的・惰性的であること、急激には変化しないことが手柄であるような社会制度というものがこの世には存在するのである。政権交代するごとに変わる教育制度とか、景況が変わる毎に変わる医療制度とか、株価の高下で変わる司法判断とかいうものはあってはならない。

勘違いして欲しくないが、それは政治イデオロギーがつねに邪悪であるからとか、経済活動はつねに人間を不幸にするという理由からではない。政治イデオロギーの消長や市場での消費者や投資家の行動は「複雑系」であって、わずかな入力の変化によって劇的に出力が変わる。複雑系は安定的な制御が困難であり、次のふるまいを予測することが不可能である。だから、人間が集団的に生きるために安定的に管理運営されていなければならない制度は複雑系に委ねてはならならないのである。

政治イデオロギーや消費欲望は高速かつランダムに変化する。それが「持ち味」なのだから、「やめろ」と言っても始まらない。でも、社会的共通資本をイデオロギーや消費欲望の動きにリンクさせることは集団的な自殺に等しい。変化してよいものと変化してはいけないものを切り分けねばならない。「変化してはいけないものには手を着けない」という当たり前のことを常識に登録しなければならない。

中国の大気汚染や水質汚染や鉄道事故や建造物の崩壊などは、経済的利益を最優先して、人間の生身の体を配慮しないと何が起きるかを示す好個の例である。大気や水質は基本的な社会的共通資本である。それなしでは人間が生きてゆけないものである限り、空気や水は何が起きようと安定的に管理されていなければならない。いっときの経済成長のために汚染するに任せてよいものではない。

でも、そんな当たり前の理屈がもう通らなくなっている。それがグローバルスタンダードなのだ、それを基準にして最速で行動しなければ経済競争に遅れを取るのだと言われて、これまで人々はそんなものかとあいまいに頷いてきたけれど、ようやく「ちょっと待ってくれ」と言い始めた。すると、気色ばんだ人たちがやって来て、「待てというが、おまえに対案があるのか? 原発を稼働させ、増税し、武器を輸出し、生産性の低いセクターを淘汰する以外にどうやって経済成長する道があるのだ?」とがみがみ言い立てる。けれども、生身の人間が生きてゆくのが困難になるようなことをしておいて「文句があれば対案を出せ」と急かすのはことの筋目が違うだろう。1916年にサイクス=ピコ協定について英仏の外交官が地元の遊牧民たちに向かって「これ以外にオスマントルコ帝国の瓦解のあとの中東の安定的な統治システムがあるのか。あれば対案を出せ」と凄む権利があると私は思わない。地元の人が「対案はないが、とりあえず勝手に国境線を引くのは止めてくれ」と言ったとしても、それを一蹴する権利は英仏にあると私は思わない。