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大学のグローバル化が日本を滅ぼす ☆ あさもりのりひこ No.357

「グローバル化度」が「大学の質を表示する数値」であるという偽りの信憑を振りまくことで、「要らない大学」を淘汰することへの国民的合意をとりつけ、かつ教育行政の歴史的失敗を糊塗すること、これが「グローバル化」なるものの実相だと僕は見ています。

 

 

2016年6月22日の内田樹さんのテクスト「大学のグローバル化が日本を滅ぼす」を紹介する。

どおぞ。

 

 

日本の大学の価値がグローバル化の進度によって決められようとしていますが、これはすでに相当数の現場の教員が実感しているとおり、大学教育の空洞化をもたらすものです。

グローバル化の指標は、①留学生派遣数、②外国人留学生受け入れ数、③外国人教員数、④英語による授業数、⑤海外提携校数、⑥TOEFL目標スコアなどすべて数値的に示されるものです。これを足し算すれば、電卓一つで日本中の750大学が「グローバル度進捗ランキング」で1位から750位まで格付けが可能となります。

グローバル化度と大学の教育研究の質の間にどのような相関があるのか、私は知りません。その間に相関関係があるという統計的根拠を文科省が開示したこともありません。にもかかわらず、この数値的に表示可能なグローバル度による大学の格付けを文科省は急いでいる。大学淘汰を加速するためです。

「大学が多すぎる。もはや大学の体を成していない教育機関もあるし、不要不急の非実学を教えているところもある。そんなところに限りある教育資源を投入するのは無駄だ」という声が財界から聞こえ、メディアもそれに賛同している。「市場」の需要がない「プレイヤー」は退場するのが当然に思えるのでしょう。

しかし、文科省は明治以来「国民の就学機会を増大させる」ことを最優先課題としてきた省庁です。どこに優先的に教育資源を分配するかについてのノウハウなら持っていますが、どの大学は要らないという「切り捨て」のロジックは持っていない。それはどう言いつくろっても「国民の就学機会を減少させる」ことだからです。これは文科省の設置目的そのものを否定することに等しい。

それに、「学ぶ資格がないのは誰か、教える資格がない学校はどこか」という問いを突き詰めてゆけば、日本人の相当数は高等教育を受けるだけの知的な備えがないという驚愕すべき現実に直面せざるを得なくなる。それは過去数十年の文科省の教育政策が根本的に間違っていたということを認めるに等しい。

「グローバル化度」が「大学の質を表示する数値」であるという偽りの信憑を振りまくことで、「要らない大学」を淘汰することへの国民的合意をとりつけ、かつ教育行政の歴史的失敗を糊塗すること、これが「グローバル化」なるものの実相だと僕は見ています。

もちろん、その結果、就学機会は減少し、国民の知的水準は低下する。官僚にもそのような暗い未来は見えているはずです。でも、他にこれまでの自分たちの失態を取り繕う施策がない。たぶん彼らも絶望的な気分で全国の大学に向かって自殺的な教育プログラムの実施を要請しているのだと思います。

 

グローバル化によって国民の知的水準が低下するのは、全国の大学が互いに見分けがたく似てしまうからです。数値による格付けは「他の条件が全部同じ場合」にしか成立しません。つまり客観的な格付けを可能にするためには、すべての大学の教育目的や教育方法を規格化・標準化し、その上で量的差異を検出しなければならない。比較される項の多様性・個性を消さないと定量的に精密な査定はできない。現に、日本中の大学は格付けを受け容れて、建学の理念も独特な教育方法も捨てようとしています。

 

グローバル化のスコアを上げるために「1年間の留学必須」を掲げる大学が増えています。4年間の教育のうち1年分を「アウトソーシング」する。留学先に支払った残りは大学の懐に入る。大学にすれば教育せずに授業料だけ徴収できる。キャンパスに通う学生実数が減るわけですから、人件費も設備費も消耗品も、全てのコストが25%削減できる。大学にとっては「おいしい話」です。いずれ「4年間のうち2年間の留学必須」を言い出す大学が出て来てもおかしくない。そして、そのときになってはじめて人々は「それならいっそ『4年間留学必須』にすればいい。そうすれば大学業務は留学手続きの代行だけになるから、PC1台バイト2人くらいで全業務が回せる。もう教員もキャンパスも要らない」ということに気がつくはずです。そして、その「何もしていない大学」の「グローバル度化」がどれくらいのハイスコアになるかを知って驚愕することになるでしょう。

 

英語による授業数もグローバル化度の重要な指標ですが、日本語で最先端の高等教育が受けられる環境を100年かけて作り上げたあげくに、なぜ外国語で教育を受ける環境に戻さなければいけないのか。僕には理由がわかりません。

研究者の立場から言えば、母語で研究できることには圧倒的なアドバンテージがあります。研究上の新しいアイディアはしばしば「自分でも何を言っているのかわからない言葉が口を衝いてほとばしってくる」というかたちを取ります。これは母語でしかできない。僕は外国語では「自分がこれから何を言うのかわからないまま話し始める」という芸当はできません。

そして、母語でしか「新語」を造語することはできない。それは、どれほど新しい概念でも既存の言葉の新しい用法でも、母語話者同士ではただちに意が通じるからです。外国語ではそんなことはできない。日本語話者が思いついた英語の新語が広く流布して英語のボキャブラリーに登録されるということはまず起らない。現に、「ワープロ」も「パソコン」も「エンゲージリング」も「ナイター」も英語辞書には登録されなかった。

 けれども、母語話者たちは新語・新概念を駆使して、独特の文化的創造を行うことができます。その知的な可塑性に駆動されて、知的探究が始まり、学問的なブレイクスルーが達成される。後天的に習得した外国語で知的なブレイクスルーを果すことは不可能とは言わないまでもきわめて困難です。公用語として外国語使用を強いられた旧植民地からいったい何人のノーベル賞受賞者が出たか、それを見ればわかることです。

 

 

繰り返し言いますが、大学のグルーバル化は国民の知的向上にとっては自殺行為です。日本の教育を守り抜くために、「グローバル化なんかしない、助成金なんか要らない」と建学の理念を掲げ、個性的な教育方法を手放さない、胆力のある大学人が出てくることを僕は願っています。