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役に立つ学問 前編 ☆ あさもりのりひこ No.372

「役に立つ学問」とは何のことなのだろう。

そもそも学問は役に立つとか立たないとかいう言葉づかいで語れるものなのか。

正直に申し上げて、私はこういう問いにまともに取り合う気になれない。というのは、こういう設問形式で問う人は、一般解を求めているようなふりをしているけれど、実際には「その学問は私の自己利益の増大に役に立つのか?」を問うているからである。

だから、にべもない答えを許してもらえるなら、私の答えは「そんなの知るかよ」である。

 

 

2017年3月30日の内田樹さんのテクスト「役に立つ学問」を採録する。

どおぞ。

 

 

「役に立つ学問」とは何のことなのだろう。

そもそも学問は役に立つとか立たないとかいう言葉づかいで語れるものなのか。

正直に申し上げて、私はこういう問いにまともに取り合う気になれない。というのは、こういう設問形式で問う人は、一般解を求めているようなふりをしているけれど、実際には「その学問は私の自己利益の増大に役に立つのか?」を問うているからである。

だから、にべもない答えを許してもらえるなら、私の答えは「そんなの知るかよ」である。何を学ぶかは自分で判断して、判断の正否についての全責任は自分で取るしかない。「役に立つ」ということには原理的に一般性がないからである。

すべての学問やテクノロジーの有用性は地域限定的・期間限定的である。ある空間的閉域を離れれば、あるいはある歴史的環境を離れたら、それはもう有用ではなくなる。空間の広狭、期間の長短に多少の差はあるけれど、結局は「程度問題」である。

それどころか、ある人にとっての「有用」はしばしば別の人にとっての「無用」や「有害」でさえある。例えば、兵器産業は有用か。この問いに即答できる人がどれだけいるだろうか。兵器を開発し、市場に投じ、それによって大きな収益を上げた企業や、その会社の株を買って儲けた投資家や、その企業から法人税を徴収して国庫に収めた国家や、その企業で雇用された従業員にとって兵器産業はたしかに有用であるだろう。けれども、そうやって兵器の機能が向上し、手際のよい営業活動によって、廉価で高性能の兵器が世界中に広くゆきわたったせいで「殺されやすくなった」人たちが他方にはいる。家を焼かれ、家族を殺された人に向かって「兵器産業は有用でしょうか」と訊いても肯定的な答えは得られないだろう。

原子力発電事業は有用か。これも難問だ。この先日本列島でまったく地震も津波もテロもなく、早い段階で放射性廃棄物の完全な処理技術が確立し、かつ電力需要がこのまま高い水準で推移するという条件がすべて満たされた場合、原子力発電事業は有用であるだろう。けれども、そのどれか一つの条件でも満たされない場合、この事業は「無用」から「非常に有害」の間のどこかに位置づけられることになる。現段階では予測できない条件によって有用物がいきなり有害物に転化するようなものについて現段階でその「有用性」や「価値」を論じることにはたぶん意味がない。

もっと穏当な喩えでもよい。英語教育は有用か。簡単そうだが、これも即答することはむずかしい。外国語教育の有用性もまた歴史的条件の関数だからである。

現在、英語教育が有用であるのは過去2世紀以上にわたって英米という英語話者の国が世界の覇権国家だったからである。それ以外の理由はない。現代の世界で生き延びる上で重要かつ有用なテクストの多くが英語で書かれているのは事実だが、それは英語圏に例外的に優秀な人々が生まれたからではなく、英語が覇権国家の言語だからである。

アメリカはこれからもしばらくは軍事的にも経済的にも大国であり続けるだろう。だが、「パクス・アメリカーナ」の時代もいずれ終わる。その後にどの国が指導的な地位を占めることになるのかは誰にも予想がつかない。ロシアかも知れない。中国かも知れない。ドイツかも知れない。その場合、私たちはどれかの強国の国語を新たな「リンガフランカ」として学ぶことをたぶん強いられる。

私が学生だった頃、理系の学生たちの多くが第二外国語にロシア語を履修していた。それは1960年代まで、自然科学のいくつかの分野ではソ連が欧米に拮抗ないし凌駕していたからである。しばらくして、ソ連の学術的没落とともにロシア語履修者は地を払った。そういうときの学生たちの見限り方の非情ぶりに私は少し感動した。同じことが英語について起こるかも知れないと私は思っている。いずれロシア語や中国語やドイツ語やアラビア語に熟達している人たちがその「希少価値」ゆえに英語話者より重用されるという日が来るかも知れない。その可能性は高い。現にもうすでに、一部の若者たちの間ではアラビア語やトルコ語学習が静かなブームになっている。彼らは独自の嗅覚で手持ち資源を効果的に投ずべき先を手探りしているのである。そして、彼らの予測が外れたとしても、彼らは失った時間と手間の返還を誰に対しても求めることはできない。

そもそも私たち日本人こそ「リンガ・フランカ」の脆さを骨身にしみて経験しているはずである。漢文の読み書きができることは古代から日本人の知識人にとって大陸渡来の新しい学問を学ぶための必須の知的ツールであった。それは遣隋使小野妹子の時代から、朝鮮通信使を対馬に迎えた雨森芳州の時代まで変わらない。漢文は日本ばかりか、東アジア全域において基礎的なコミュニケーション・ツールであった。だから、どこの国を旅しても、知識人同士は、懐から矢立てと懐紙を取り出して、さらさらと文を認めれば互いに意を通じることができたのである。漢文運用能力はとりわけ近代以降にその威力を発揮した。中江兆民はルソーの『民約論』を日本語訳すると同時に漢訳もした。だから、多くの中国人知識人は兆民を介してフランスの啓蒙思想に触れることができた。樽井藤吉は日本と朝鮮の対等合併を説いた『大東合邦論』を漢語で書いたが、それは彼が日本・朝鮮二国のみならず広く東アジア全域の読者を想定していたからである。宮﨑滔天も北一輝も内田良平もかの「アジア主義者」たちは、中国・朝鮮の政治闘争に直接コミットしていったが、おそらく彼らの多くはオーラル・コミュニケーションではなく「筆談」によってそれぞれの国での組織や運動にかかわったはずである。こういう姿勢のことをこそ私は「グローバル」と呼びたいと思う。

近代まで漢文は東アジア地域限定・知識人限定の「リンガフランカ」であった。それを最初に棄てたのは日本人である。こつこつ国際共通語を学ぶよりも、占領地人民に日本語を勉強させるほうがコミュニケーション上効率的だと考えた「知恵者」が出てきたせいである。自国語の使用を占領地住民に強要するのは世界中どこの国でもしていることだから日本だけを責めることはできないが、いずれにせよ自国語を他者に押し付けることの利便性を優先させたことによって、それまで東アジア全域のコミュニケーション・ツールであった漢文はその地位を失った。日本人は自分の手で、有史以来変わることなく「有用」であった学問を自らの手で「無用」なものに変えてしまったのである。

戦後日本の学校教育も戦前と同じく「コミュニケーション・ツールとしての漢文リテラシーの涵養」に何の関心も示さなかった。さらに韓国が(日本の占領期に日本語を強要されたことへの反発もあって)漢字使用を廃してハングルに一元化し、さらに中国が簡体字を導入するに及んで、漢文はその国際共通性を失ってしまった。千年以上にわたって「有用」とされた学問がいくつかの歴史的条件(そのうちいくつかはイデオロギー的な)によって、短期間のうちにその有用性を失った好個の適例として私は「漢文の無用化」を挙げたいと思う。

 

私が言いたいのは、ある学問が有用であるかどうかを決するのは、学問そのものの内在的価値ではなく、またその経験的に確証された有用性でもなく、多くの場合、パワーゲームにおいて、その時点で力を持っているプレイヤーの利害だということである。それ以外の要素はおしなべて副次的なものに過ぎない。