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役に立つ学問 後編 ☆ あさもりのりひこ No.374

先に述べた通り、英語がリンガフランカであるのは、いくつかの歴史的条件によってそうなっているだけのことであって、いずれそうではなくなる。それがいつかはわからないけれど、いずれ英語はローカルな一言語になる。

 

 

2017年3月30日の内田樹さんのテクスト「役に立つ学問」を紹介する。

どおぞ。

 

 

もうこれで結論は出ているので、これ以上書くことは特にない。でも紙数が大幅に残ったので、あとは余計なことを書く。

現代は世界どこでも英会話能力が「役に立つ学問」の最たるものとされているが、これを果たして「実学」と呼んでいいのかということを論じてみたい。先に述べた通り、英語がリンガフランカであるのは、いくつかの歴史的条件によってそうなっているだけのことであって、いずれそうではなくなる。それがいつかはわからないけれど、いずれ英語はローカルな一言語になる。

そもそも、現在日本で暮している人たちの多くにとって英会話能力はとくに緊急性の高いものではない。ふつうの生活者に英語で話す機会はほとんどない。ときどき、「外国人に道を聞かれたときに、教えられるように」というようなことを言う人がいるが、「外国人に道を聞かれる」というようなことがどの程度の頻度で起きるのか。思い返しても、私が外国人に道を聞かれたことは過去に一度しかない。十年ほど前、芦屋駅の近くで「駅はどこか」と聞かれた。おまけにそれはフランス語であった。私は「その角を右に曲がる」と初級フランス語の三頁目くらいに出てくる文型を以て答えたが、「アシヤ」が聴き取れれば、無言で手を引っ張ってゆけば済んだ話である。

異郷で困惑している人に手を差し出すというのはたいせつなことである。でも、そのためにまず必要なのは「人として」の惻隠の情であって、外国語運用能力ではない。けれども、まことに不思議なことだが、本邦では「困っている人に手を差し伸べること」の重要性を学校で厳しく教えるということはない。人としてのまっとうな態度を社会的格付けに適用するということもない。圧倒的な重要性が付与されているのは英会話能力に対してなのである。

はっきりと英会話能力が求められているのは経済活動の領域においてである。インバウンドの観光客を接待するホテルやレストランや店舗において、あるいは海外市場でセールスを行うビジネスマンや、海外の生産拠点で経営や労務管理を担当する人たちにとって英語は必須のツールであろう。その必要性を私は十分に理解している。けれども、どれほどの能力を持った人間がどれほどの人数必要なのか、その数値目標にどれほどの積算根拠があるのか、私は説得力のある話を聞いたことがない。

文科省が2013年に発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」は小学校三年からの英語教育開始を指示したことで話題になったが、この計画によると中学では英語の授業は英語で行うことを基本とする。高校では「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う。授業を英語で行うとともに、言語活動を高度化(発表、討論、交渉等)」することがめざされ、達成目標として「高校卒業段階で英検2級~準1級、TOEFL57点程度以上等」が掲げられている。

日本中の高校生に高校卒業時点で「英検2級から準1級」というのは正直に言ってありえない数値目標だと思う。それがどの程度の英語学力を要するものかを知りたい人はネットで検索すれば過去問がすぐに読めるので、自分で解答を試みられたい。ご覧頂ければわかるが、日常的に英語を浴びるように読み、聴く、理解できない点についてはこまめに辞書を引き、疑問点は先生に質問し・・・という生活をしていないと、ふつうの高校生がこのレベルには達することはできない。

他の教科の場合、そのような真摯な学習態度で高校の授業に臨んでいる生徒はほとんどいないという現実を知った上で、英語についてだけこのような要求をすることを「異常」だと思わないとしたら、その人の方がよほど「異常」である。

「計画」には高校卒業時点での達成として「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う」とあるが、そもそも日本語によってでさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる」高校生がどれだけいるのか。2016年の調査によれば、10代の新聞閲読率(閲読とは「一日15分以上、チラシや電子版を含めて新聞を読むことをいう)は4%である。わずか4%である。マスメディアに対する不信感が募っている時代にあって、この数字はこの先さらに減少することはあっても、V字回復するとは思われない。

たしかに高校生たちは終日スマホに見入っているが、それは別に電子版のニュースで国際情勢や国会審議を注視しているわけではないし、ツイッターやラインで政治的意見を交換したり、日本経済のゆくえについての懸念を語り合っているわけでもない。日本語でさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解」することに困難を覚えている人たちが外国語でそれができるはずがない。そんなことは誰でもわかる。ではなぜ、日本語での読解能力・対話能力の低下が深刻な問題となっている状況下で、英語で「幅広い話題について抽象的な内容を理解」するというような目標を掲げることに優先性があり、かつその目標が達成可能だと信じられるのか。そういう計画を立てることのできる人々の頭の中身が私にはどうしても理解できない。

私に分かるのは、この計画の起案者たちが高校卒業までに子どもたちが使える教育資源の多くを英会話に投じることの必要性について自分の頭を使って考えたことがないということである。すでに現場から悲鳴が上がっているように、小学校への英語教育の導入・必修化によっては教員の業務が量的にも質的にも増大する。「バーンアウト」寸前の教育現場にさらなる負荷を課し、教員たちも児童たちも疲れ切った状態に追い込んでまでなぜ英語教育を重視するのか。なぜ達成できるはずのない到達目標を掲げてみせるのか。この「実学」への過剰な教育資源の分配の合理的理由を語ってくれる人に私はまだ会ったことがない。

英語運用能力については、その有用性について誰一人異論を口にしない。けれども、その期待される有用性とその学習努力のために投じられる手間暇を「ベネフィット」と「コスト」で計算した場合、帳尻は合うのか。「実学」を論じる人たちの経済合理性に対するこの無関心に私は驚愕するのである。

そもそも実学というのは平たく言えば、「教育投資が短期的かつ確実に回収されるような知識や技術」のことではなかったのか。学習努力という「コスト」がただちに就職率や年収やポストといった「ベネフィット」として回収されるものを私たちの社会では「実学」と呼んでいるはずである。数学や天文学や古生物学や地質学は間違いなくかなり広い範囲で、また長期にわたって有用な学問でありうると私は思うが、これを誰も「実学」とは呼ばない。「金にならない」と思われているからである。学の虚実を格付けしているのは、コンテンツの良否ではなく、「教育投資の短期的かつ確実な回収が可能かどうか」だけである。そして、それは市場における当該知識・技能についての「需給関係」で決まり、学知そのものの価値とは関係がない。

以前私より二十歳ほど年長のビジネスマンと会食したときに、彼が大学在学中最も人気のあった理系学科は何だか知っているかと聞かれた。わからないと答えると「冶金学科」だと教えてもらった。製鉄業が日本経済を牽引していた時代だったのである。今の学生たちは「冶金」という文字さえもう読めないだろうが、冶金についての知識に市場が最高値をつけたのは今からわずか60年ほど前の話なのである。製鉄や造船や建設が日本経済の花形業界であった時代がしばらく続き、それから流通やサービス業が人気業種になり、金融や広告やマスコミに若者が集まるようになり、それからITと創薬と貧困ビジネスと高齢者ビジネスの時代になった。それぞれ人気のある業界で「即戦力」として使用できる知識や技能が「実学」と呼ばれたけれど、その栄枯盛衰はめまぐるしかった。だから、私たちもあと十年後には何が実学になるのか予測することができない。AppleGoogleが十年後に存在しているかどうかさえ誰にもわからない時代なのだから、十年後の「実学」が予測できるはずがない。

もう少し身近な話をしよう。私が大学に在職していた頃、「女子大に薬学部を作る」ということがトレンドになったことがあった。ご記憶の方も多いだろうが、コンサルタントがあちこちの大学に学部創設のプロジェクトを持ちかけた。そのときに強調されたのは、薬学部なら6年通うから授業料収入が1.5倍になるという「金目の話」と、女子の「実学志向」と言われるものだった。「当今の女子学生の母親たちは娘が手に職をつけることを強く望んでいる。母親たちは娘たちに経済的自立という自分が果たせなかった夢を託す傾向にある。だから、娘たちには医学部・歯学部・薬学部を狙わせるのだ」という説明にはなかなか説得力があった。そして、その三つの中では薬学部が立ち上げコストが一番安かったので、いくつかの大学がその計画に乗った。

その結果、短期間にそれまで46校で安定していた薬学部が74校に急増し、薬科大学・薬学部の総定員は13000人に達した。不幸なことに、これは市場の「ニーズ」に対して供給過剰であった。結果的に多くの学部が定員割れになった。その一方、出口に当たる薬剤師国家試験の合格率は低いままだった。50%を切った年もあるが(2010年)、ここしばらくは60~70%台で推移している。つまり、薬学部に入ったが卒業できなかった学生、卒業したが国試に通らなかった少なからぬ数の学生が存在するということである。そして、彼ら彼女らにとって、この学問は「教育投資が短期的かつ確実に回収」できなかった以上「実学」ではなかった。誰が考えても薬学は有用な学問である。けれども、言葉の精密な定義に従えば「実学」ではない。一般論としては「役に立つ学問」であるけれど、それを学んだけれど国試に通らなかった学生にとっては個人的には「無用の学問」だったことになる。

だから、「〇〇は実学か」という問いを当該学問の内在的な価値に求めても虚しいことだと先ほどから言っているのである。「実学度」は市場の需要と大学の卒業生供給の関数であり、それ以外のファクターは副次的なものに過ぎない。

その意味では実学の度合いは株価とよく似ている。「株取引は美人投票の高得票者を当てるゲームだ」という言い方がしばしばされる。自分の審美的基準はとりあえず棚に上げておいて、「みんなが誰を美人だと思うか」を推測する。自分の主観を封じて、「世の人々が欲望するもの」を正しく言い当てたものが株の売り買いのゲームの勝者になる。「実学」ゲームもたぶんそれと同じである。自分が何を勉強したいのか、何を知りたいのか、どんな技能を身につけたいのかといったことは「棚に上げて」、「市場ではどういう知識や技能に高値がつくか」を読み当てたものがとりあえず「実学ゲーム」の勝者になる。

ただし、勝者が勝者であり続けられる期間はあまり長くない。だんだん短くなっている。それだけの話である。

 

私は「役に立つ学問」というものに興味がない。それを識別することに何か意味があると思っている人にも興味がない。それはたぶん「お前のやっていることは何の役にも立たない」と若い頃から言われ続けてきたせいである。自分でも「そうかもしれない」と思っていたから反論もしなかった。でも、自分にはぜひ研究したいことがあったので、大学の片隅で気配をひそめて「したいこと」をさせてもらってきた。私が30年にわたって「何の役にも立たないこと」を研究するのを放置していてくれた二つの大学(東京都立大学と神戸女学院大学)の雅量に私は今も深く感謝している。私が選んだ学問領域は四十年にわたって私に知的高揚をもたら続けてくれた。私はそれ以上のことを学問に望まなかったし、今も望んでいない。