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村上春樹の系譜と構造(第2回) ☆ あさもりのりひこ No.382

村上春樹は物語を書くときに、どういう話にするのか、何も決めずに書き始めると語っています。

 

 

2017年5月14日の内田樹さんのテクスト「村上春樹の系譜と構造」を紹介する。

どおぞ。

 

 

「穴を深くうがって」ゆくと、作家は「創作の水源」にたどり着く。村上春樹はそう書いています。さて、ここで言う「創作の水源」とはどのようなもののことなのでしょうか。長時間集中的に「物語を書く」という行為に没頭しているうちに鑿が「固い岩盤」を突き抜けて穴を穿った。いったい、そのときに作家は何に触れたのでしょう。それを村上春樹は「ある種の基層」と言い表しています。

「書くことによって、多数の地層からなる地面を掘り下げているんです。僕はいつでももっと深くまで行きたい。ある人たちは、それはあまりに個人的な試みだと言います。僕はそうは思いません。この深みに達することができれば、みんなと共通の基層に触れ、読者と交流することができるんですから。つながりが生まれるんです。もし十分遠くまで行かないとしたら、何も起こらないでしょう。」(「夢を見るために毎朝僕はめざめるのです」文藝春秋、2010年、155頁、強調は内田)

『羊めぐる冒険』を書いた時に、村上春樹はある「共通の基層」に触れた。それは世界文学の水脈のようなものだったのではないかと僕は思います。時代を超え、国境を越えて、滔々と流れている地下水流がある。それがさまざまな時代の、さまざまな作家たちを駆り立てて、物語を書かせてきた。それと同じ「水脈」を『羊をめぐる冒険』を書きつつある作家の鑿は掘り当てた。

というのは、『羊をめぐる冒険』を書かせた水脈は、それより前に、別の国で、別の作家に、別の物語を書かせていたからです。日本の文学の用語では「本歌取り」と言う技法があります。営みとしてはあるいはそれに似ているのかも知れません。でも、和歌の場合と違うのは、作家は意識して「本歌取り」をしたわけではないということです。水脈に身を委ねて書いているうちにいつのまにか「そういう物語」を書いてしまっていた。『羊をめぐる冒険』の直前に同じ水脈から生まれた物語とは何か。直近の「本歌」はレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ(The Long Goodbye)』(1953年)です。

私立探偵フィリップ・マーロウがミステリアスでチャーミングな飲み友達であるテリー・レノックスが彼の前にから消えたときに託された「依頼」を果たすためにさまざまな危険を冒し、それを果たし終えたときに、テリー・レノックスとの決定的な別離が訪れる。そういう物語です。

話型の構造で言えば、マーロウは「僕」で、レノックスは「鼠」です。レノックスと「鼠」は主人公の分身、アルターエゴです。このアルターエゴの特徴は、弱さ、無垢、邪悪なものに対する無防備、それらの複合的な効果としての不思議な魅力です。それはこう言ってよければ、主人公が「今のような自分」になるために切り捨ててきたものです。主人公たちを特徴づける資質は、自己規律、節度、邪悪なものに対する非寛容といった資質です。タフでハードな世界を、誰にも頼らずに生き抜くためには、それなしではいられないような資質です。

対照的な二人ですけれど、主人公とアルターエゴには共通する資質もあります。それは、無私と礼儀正しさです。女性に対するある種の魅力も主人公には備わっていますが、それはアルターエゴのそれほど劇的なものではありません。特に「礼儀正しさ」(decency)は二人を結びつける決定的な共通点です。絶妙な距離感といったらよいのでしょうか。親しみ深く接してくれるし、必要な時には必ず手を貸してくれることはわかっているけれど、決してある境界線を超えて接近して来ない。そういう両者の距離が二人を結びつけています。決して必要以上に近づいてこないことがわかっているので、安心して近くにいることができる。そういう関係です。ですから、適切な距離を取ることができなくなったとき、つまり一方が他方に依存したり、何かを依頼したとき、彼らの関係は終わります。『ロング・グッドバイ』では、テリー・レノックスがマーロウに殺人事件の事後従犯となりかねない危険な仕事を依頼し、マーロウがそれを引き受けることで二人の友情は事実上終わります。『羊をめぐる冒険』では「鼠」が最後に主人公にある仕事を依頼して、主人公がそれを果したときにふたりの友情は終わります。

『羊をめぐる冒険』の「本歌」は『ロング・グッドバイ』です。勘違いして欲しくないのですが、それは村上春樹がレイモンド・チャンドラーを「模倣した」ということではありません。物語を書いているうちに、登場人物たちがそのつどの状況で語るべき言葉を語り、なすべきことをなすという物語の必然性に従っていたら「そういう話」になってしまった。それだけこの物語構造は強い指南力を持っていたということです。

村上春樹は物語を書くときに、どういう話にするのか、何も決めずに書き始めると語っています。この言明はそのまま信じてよいと思います。物語には必然的な流れがある。ある「ピース」が次の「ピース」を呼び出す。そうやってピースとピースを繋いでいるうちに、形状記憶が再生されるように、ひとまとまりの物語が立ち上がってくる。書いている時には「次に何が起こるか、書く前には決してわからないのですか?」というインタビュアーの問いに村上春樹はこう答えています。

「わかりませんね。僕は即興性を大事にします。もし、物語の結末がわかっているなら、わざわざ書くには及びませんね。僕が知りたいのはまさに、あとにつづくことであり、これから起こるできごとなんです。ある種の物語は、ページをめくるたびごとにたえず進化しつづけるものですが、そんな本を僕は書きたいんです。」(同書、159頁)

作家が知りたいのは「あとにつづくこと」であり、「これから起こるできごと」である。作家はあらかじめ物語の結末を知っているわけではありません。作家はそれを知らないけれど、物語はそれを知っている。作家は物語に導かれるのです。そうしたら、『羊をめぐる冒険』は『ロング・グッドバイ』と「同じ話」になった。

 

でも、僕が知る限り、小説の発表時点で、そのことを指摘した人はいませんでした。もちろん、「同じ」なのは、二つの物語が結びつく、ある「基層」においてだけのことであって、それ以外のすべての層において二つはまるで別の物語です。でも、この「基層」において、『羊をめぐる冒険』は世界文学の「水源」に触れたのでした。というのは、『ザ・ロング・グッドバイ』にもまた「本歌」があったからです。それはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby, 1925)です。