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村上春樹の系譜と構造(第3回) ☆ あさもりのりひこ No.384

「もし『これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ』と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。」

 

 

2017年5月14日の内田樹さんのテクスト「村上春樹の系譜と構造」を紹介する。

どおぞ。

 

 

『ギャツビイ』の語り手ニック・キャラウェイとジェイ・ギャツビーの関係はフィリップ・マーロウとテリー・レノックスの関係と同じです。マーロウに比べて、ニックがあまりに弱々しく凡庸なので、この二つの「ペア」の相同性は見落とされがちですが、ニックはギャツビーの無垢、純粋さ、密やかな邪悪さ、自己規律の弱さを際立たせるために配されています。不実な恋人の犯した殺人の罪をかぶって「死ぬ」という奇妙な役どころをテリー・レノックスとジェイ・ギャツビーは共有しています。これほどの相似が偶然のものであるはずがありません。ただ、チャンドラーがフィッツジェラルドを意識的に模倣したのかどうか、それは僕にはわかりません。たぶん違うだろうと思います。この物語原型には作家たちを呼び寄せるそれだけの力があるのだという解釈の方を僕は選びたいと思います。

なぜ「この種の物語」は「複製」を生み出す力を持つのか。その問いに答える前に、もう一つ『グレート・ギャツビー』にも「本歌」があったということを指摘しておかなければなりません。それはアラン・フルニエの『グラン・モーヌ』です。

語り手のフランソワ・スレルは15歳、彼を魅了するオギュスタン・モーヌは17歳。オギュスタンはフランソワのアルターエゴです。純粋で、無謀で、情熱的で、破滅的な弱さを隠し持っている魅力的な少年です。彼は一瞬の恋に燃え上がって、そのまま燃え尽きるようにフランソワの前から姿を消してしまいます。Le grand Meaulnesを英語で表記すれば The great Meaulnes となります。タイトルの相似からだけでも、二つの作品の関係を想定することができます。『グラン・モーヌ』がフランスでベストセラーになっていた時期にフィッツジェラルドはパリに滞在していました。フィッツジェラルドがフルニエのこの小説について何も知らなかったということはありえません。

『グラン・モーヌ』が1913年、『グレート・ギャツビー』が1925年、『ロング・グッドバイ』が1953年、そして『羊をめぐる冒険』が1982年。70年の間に「世界文学の傑作」に数えられる作品が4つ書かれました。ご存知の通り、村上春樹は『ロング・グッドバイ』と『グレート・ギャツビー』は自分でのちに翻訳を出しています。『グレート・ギャツビー』の「訳者あとがき」に村上春樹はこう書いています。

「もし『これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ』と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。」(スコット・フィッツジェラルド、『グレート・ギャッビー』、村上春樹訳、中央公論新社、2006年、333頁)

『ロング・グッドバイ』の「訳者あとがき」では、この二作品の相似について村上春樹は言及しています。

「僕はある時期から、この『ロング・グッドバイ』という作品は、ひょっとしてスコット・フィッツジェラルドの『グレード・ギャッビー』を下敷きにしているのではあるまいかという考えを抱き始めた。」(レイモンド・チャンドラー、『ロング・グッドバイ』、村上春樹訳、早川書房、2007年、547頁)

村上はこの二人の作家の共通点として、アイルランド系であること、アルコールの問題を抱えていたこと、生計を立てるために映画ビジネスにかかわったこと、「どちらも自らの確かな文体を持った、優れた文章家だった。何はなくとも文章を書かずにはいられないというタイプの、生来の文筆家だった。いくぶん破滅的で、いくぶん感傷的な、そしてある場合には自己愛に向かいがちな傾向も持ち合わせており、どちらもやたらたくさん手紙を書き残した。そして何よりも、彼らはロマンスというものの力を信じていた。」(同書、547-548頁)といった気質的なものを列挙していますが、もちろんそれだけのはずがない。二つの物語には共通の構造があることも指摘しています。

「そのような仮説を頭に置いて『ロング・グッドバイ』を読んでいくと、その小説には『グレート・ギャツビー』と重なり合う部分が少なからず認められる。テリー・レノックスをジェイ・ギャッビーとすれば、マーロウは言うまでもなく語り手のニック・キャラウェイに相当する。()ギャッビーもレノックスも、どちらもすでに生命をなくした美しい純粋な夢を(それらの死は結果的に、大きな血なまぐさい戦争によってもたらされたものだ)自らの中に抱え込んでいる。彼らの人生はその重い喪失感によって支配され、本来の流れを変えられてしまっている。そして結局は女の身代わりとなって死んでいくことになる。あるいは疑似的な死を迎えることになる。

 マーロウはテリー・レノックスの人格的な弱さを、その奥にある闇と、徳義的退廃をじゅうぶん承知の上で、それでも彼と友情を結ぶ。そして知らず知らずのうちに、彼の心はテリー・レノックスの心と深いところで結びついてしまう。」(同書、550-551頁)

「主人公(語り手)はとくに求めもしないまま、一種の偶然の蓄積によって、いやおうなく宿命的にその深みにからめとられていくのだ。それではなぜ彼らはそのような深い思いに行き着くことになったのだろう? 言うまでもなく、彼ら(語り手たち)はそれぞれの対象(ギャツビーとテリー・レノックス)の中に、自らの分身を見出しているからだ。まるで微妙に歪んだ鏡の中に映った自分の像を見つめるように。そこには身をねじられるような種類の同一化があり、激しい嫌悪があり、そしてまた抗しがたい憧憬がある。」(同書、553頁)

 

この解釈に僕は付け加えることはありません。でも、村上春樹はこの「語り手」と「対象」の鏡像関係がそのまま『羊をめぐる冒険』の「僕」と「鼠」のそれであることについては言及していません。故意の言い落としなのか、それとも気づいていないのか。たぶん、気づいていないのだと思います。でも、どちらであれ、それは『羊をめぐる冒険』という作品が世界文学の鉱脈に連なるものであるという文学史的事実を揺がすことではありません。