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天皇制についてのインタビュー(第2回) ☆ あさもりのりひこ No.390 

死者のことなんかどうでもいいじゃないかと思っていると、死者は蘇って、「祟り」をなす。死者の切迫をつねに身近に感じて、その怒りや恨みや悲しみを鎮めようと必死で祈り続ければ、死者はしだいに遠ざかり、その影響力も消えてゆく。そういう仕組みなんです。

 

 

2017年5月16日の内田樹さんのテクスト「天皇制についてのインタビュー」を紹介する。

どおぞ。

 

 

―― 天皇は非人称的な「象徴」(機関)であると同時に、人間的な生身の「個人」でもあります。象徴的行為では、天皇の象徴性(記号性)と人間性(個人性)という二つの側面が問題になると思います。

 

昭和天皇もそのような葛藤に苦しまれたと思います。大日本帝国憲法下の天皇はあまりに巨大な権限を賦与されていたために、人間的な感情の発露を許されなかった。だから、昭和天皇には余人の計り知れない、底知れないところがありました。開戦のとき、終戦のとき、天皇がほんとうは何を考え、何を望んでおられたのか、誰にも決定的なことは知らない。けれども、日本国憲法下での象徴天皇制70年間の経験は、今の陛下に「自分の気持ち」をある程度はっきりと告げることが必要だという確信をもたらした。

天皇は自分の個人的な気持ちを表すべきではないという考え方もあると思います。そういう考え方にも合理性があることを私は認めます。けれども、政治に関与することない象徴天皇制であっても、その時々の天皇の人間性が大きな社会的影響力を持つことは誰にも止められない。そうであるならば、私たち国民は天皇がどういう人柄で、どういう考えをする方であるかを知る必要がある。「国民の安寧と幸福」に資するために天皇制をどのようなものであるべきかは天皇陛下と共に、私たち国民も考え続ける義務があります。法的に一つの決定的なかたちを選んで、その制度の中に皇室を封じ込めて、それで「けりをつける」というような硬直的な構えは採るべきではない。

日本国憲法下における立憲デモクラシーと天皇制の併存という制度は、出発時点ではどういうものになるのか、想像もつかなかった。その制度が今こうしてはっきりとした輪郭を持ち、日本の社会的な安定の土台になるに至ったのには、皇室のご努力が与って大きかったと私は思います。天皇制がどうあるべきかについての踏み込んだ議論を私たち国民は怠ってきたわけですから。

しかし、国民が議論を怠っている間にも、陛下は天皇制がどういうものであるべきかについて熟考されてきた。「お言葉」にある「即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました」というのは、陛下の偽らざる実感だと思います。そして、その模索の結論が「象徴的行為を果すのが象徴天皇である」という新しい天皇制解釈でした。私はこの解釈を支持します。これを非とする人もいるでしょう。それでもいいと思います。天皇制の望ましいあり方について戦後70年ではじめて、それも天皇ご自身から示された新しい解釈なのですから、この当否について議論を深めてゆくのは私たち日本国民の権利であり、また義務であると思います。

 

―― 象徴的行為は死者と自然に関わる霊的行為です。これはシャーマニズム的だと思います。

 

どのような共同体にもそれを基礎づける霊的な物語があります。近代国家も例外ではありません。どの国も、その国が存在することの必然性と歴史的意味を語る「物語」を必要としている。天皇は伝統的に「シャーマン」としての機能を担ってきた。その本質的機能は今も変わりません。「日本国民統合の象徴」という言葉が意味しているのはそのことです。しかし、鎮魂慰霊すべき「死者」をどう設定するか、これが非常に難しい問題となります。

伝統的に、死者の鎮魂において政治的な対立や敵味方の区分は問題になりません。「死んだら誰もが仏になる」というのは、死者を識別してはならないという私たちの中に深く根付いた死生観を表す言葉です。「こちらの死者は鎮魂するが、こちらの死者については朽ちるに任せる」というような賢しらなことはしてはならない。

かといって、「四海同胞」なのだから人類誕生以来の死者全てを同時に平等に鎮魂慰霊すればいいという話にはならない。それでは「国民統合」の働きは果たせない。象徴的行為の目的はあくまでも国民の霊的統合ですから。どこかで、ここからここまでくらいが「私たちの『死者』」という、範囲について国民的合意を形成する必要がある。

だからこそ、陛下は戦地を訪れておられるのだと思います。宮中にとどまったまま祈ることももちろんできます。けれども、それでは誰を慰霊しているのか判然としなくなる。戦地にまで足を運び、敵も味方も現地の非戦闘員も亡くなった現場に立つのは、「ここで亡くなった人たち」というかたちで慰霊の対象を限定するためです。日本人死者たちのためだけに祈るわけではもちろんありません。アメリカ兵のためにも、フィリピン市民のためにも祈るけれど、「人類全体」のために祈っているわけでもない。そのような無限定性は祈りの霊的な意味をむしろ損なってしまう。死者はただの記号になってしまう。だから、「敵味方の区別なく」であり、かつ「まったく無限定ではない」という条件を満たすためには、どうしても「現場」に立つしかない。それが鎮魂慰霊のために各地を旅してきた陛下の経験的実感だと私は思います。

鎮魂は日本に限ったことではありません。他国には他国の霊的な物語がある。たとえば慰安婦問題がそうです。日韓合意は日本との経済関係や軍事的連携を優先するという合理的な考え方に基づくものだったけど、慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に」解決するには至らなかった。韓国の人たちが「このような謝罪では、死者が許してくれない」という死者の切迫を感じているからです。南京大虐殺もそうです。

鎮魂慰霊というのは生きている人間の実利にはかかわりがありません。そんなことをしてもらっても生きている人間たちの現実には何一つ「いいこと」があるわけではない。けれども、恨みを抱えて死んだ同胞の慰霊を十分に果たさなければ「何か悪いこと」が起きるということは世界のどの国でも、人々は実感しています。死者の切迫とは「これでは死者が浮かばれない」という焦燥のことです。そして、その感覚が現に外交や内政に強い影響を及ぼしている。「成仏できない死者たち」が現実の政治過程に強い影響を及ぼしているという点では、実は古代も現代も変わらない。その意味では私たちは今もまだ「シャーマニズムの時代」と地続きなのです。

 

ですから、「死者をして安らかに眠らせる」ということが近代国家にとってもきわめて重要な政治的行為となりうるのです。死者のことなんかどうでもいいじゃないかと思っていると、死者は蘇って、「祟り」をなす。死者の切迫をつねに身近に感じて、その怒りや恨みや悲しみを鎮めようと必死で祈り続ければ、死者はしだいに遠ざかり、その影響力も消えてゆく。そういう仕組みなんです。そのことはわれわれ現代人も実際には熟知している。だからこそ、陛下は旅を止めることができないのです。