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天皇制についてのインタビュー(最終回) ☆ あさもりのりひこ No.392 

道徳というのは、何十年、何百年という長い時間のスパンの中にわが身を置いて、自分がなすべきことを考えるという思考習慣のことです。

 

 

2017年5月16日の内田樹さんのテクスト「天皇制についてのインタビュー」を紹介する。

どおぞ。

 

 

―― 「國體護持」ですね(笑)

 

「國體」というのは、この二つの中心の間で推力と斥力が働き合い、微妙なバランスを保つプロセスそのものことだと私は理解しています。「國體」というものを単一の政治原理のことでもないし、単一の政体のことでもない、一種の均衡状態、運動過程として理解したい。祭祀的原理と軍事的・政治的原理が拮抗し合い、葛藤し合い、干渉し合い、決して単一の政治綱領として教条化したり、制度として惰性化しないこと、それこそが日本の伝統的な「国柄」でしょう。

安倍内閣の大臣たちが言う「国柄」というのは固定的なイデオロギーや強権的な政治支配のことですけれど、僕はそういう硬直化した思考ほど日本のあるべき「国柄」の実現を妨げるものはないと思います。

そう考えるようになった一因は、何年か前に韓国のリベラルな知識人と話したときに、「日本は天皇制があって羨ましい」と言われたことです。あまりに意外な言葉だったので、理由を尋ねるとこう答えてくれました。

「韓国の国家元首は大統領です。でも、大統領は世俗的な権力者にすぎず、いかなる霊的価値も担わないし、倫理の体現者でもない。だから、大統領自身もその一党もつい権威をかさに不道徳なふるまいを行う。そして、離職後に、元大統領が逮捕され、裁判にかけられるという場面が繰り返される。ついこの間まで自分たちが戴いていた統治者が実は不道徳な人物であったという事実は、韓国民の国民統合や社会道徳の形成を深く傷つけています。それに比べると、日本には天皇がいる。総理大臣がどれほど不道徳な人物であっても、無能な人物であっても、天皇が体現している道徳的なインテグリティ(高潔性)は傷つかない。そうやって天皇は国民統合と倫理の中心として社会的安定に寄与している。それに類する仕組みがわが国にはないのです」という話を聞きました。

言われてみれば確かにそうだと思いました。日本でも総理大臣が国家元首で、国民統合の象徴であり、人としての模範であるとされたら、たちまち国中が道徳的な無規範状態に陥ってしまうでしょう。

18世紀の近代市民社会論では、「自分さえよければそれでいい」という考え方を全員がすると社会は「万人の万人に対する戦い」となり、かえって自己利益を安定的に確保できない。だから、私権の制限を受け入れ、私利の追求を自制して、「公共の福利」を配慮した方が確実に私権・私利を守れるのだ、という説明がなされます。「自己利益の追求を第一に考える人間は、その利己心ゆえに、自己利益の追求を控えて、公的権力に私権を委譲することに同意する」というロジックです。「真に利己的な人間は非利己的にふるまう」というわけです。

でも、私はこの近代市民社会論のロジックはもう現代日本においては破綻していると思います。「このまま利己的にふるまい続けると、自己利益の安定的な確保さえむずかしくなる」ということに気づくためには、それなりの論理的思考力と想像力が要るわけですけれど、現代日本人にはもうそれが期待できない。

しかし、それでもまだわが国には「非利己的にふるまうこと」を自分の責務だと思っている人がいる。それだけをおのれの存在理由としている人がいる。それが天皇です。

1億2700万人の日本国民の安寧をただ祈る。列島に暮らすすべての人々、人種や宗教や言語やイデオロギーにかかわらず、この土地に住むすべての人々の安寧と幸福を祈ること、それを本務とする人がいる。そういう人だけが国民統合の象徴たりうる。

私は天皇制がなければ、今の日本社会はもっと手の付けられない不道徳、無秩序状態に陥っているだろうと思っています。

 

―― 確かに東日本大震災の時、菅直人総理大臣しかいなかったら、もっと悲惨な状況になっていたと思います。

 

震災の直後に、総理大臣と天皇陛下のメッセージが並んで新聞に載っていました。全く手触りが違っていた。総理大臣のメッセージは可もなく不可もない、何の感情もこもっていない官僚的作文でしたけれど、天皇陛下のメッセージは行間から被災者への惻隠の情が溢れていた。その二つを読み比べて、「国家的危機に際してこんな言葉しか出しえない政治家は国民統合の中心軸にはなれない。でも天皇陛下なら国民を一つにまとめられるだろう」と思いました。

 

―― 内田さんは天皇の役割について「権威」ではなく「霊的権力」「道徳的中心」という言葉を使っています。

 

道徳というのは別に「こういうふうにふるまうことが道徳的です」というリストがあって、それに従うことではありません。そう考えている人がほとんどですけれど、まったく違います。道徳というのは、何十年、何百年という長い時間のスパンの中にわが身を置いて、自分がなすべきことを考えるという思考習慣のことです。ある行為の良し悪しの判断というのは、リストと照合して決められることではありません。「私がこれをしたら、死者たちはどう思うだろう」「私がこれをしたら未来の世代はどう評価するだろう」というふうに考える習慣のことを「道徳的」と言うのです。

道徳心がない人間のことを「今だけ、金だけ、自分だけ」とよく言いますけれど、言い得て妙だと思います。不道徳的であることの最大の条件は「今だけ」という考え方をすることです。四半期ベースでものごとの当否を決めるような態度のことを「不道徳的」と言うのです。

ですから、次の選挙まで一時的に権力を付託されているに過ぎない総理大臣と悠久の歴史の中で自分の言動の適否を判断しなければならない天皇では、そもそも採用している「時間的スパン」が違います。安倍政権は赤字国債の発行でも、官製相場の維持でも、原発再稼働でも、要するに「今の支持率」を維持するためには何でもします。死者たちはどう思うか、未来の世代はどう評価するかというようなことは考えていない。自分の任期が終わったあとの日本についてはほとんど何も考えていない。

天皇の道徳性というのは、そのときに天皇の地位にある個人の資質に担保されるわけではありません。1500年という時間的スパンの中に自分を置いて、「今何をなすべきか」を考えなければいけない。そのためには「もうここにはいない」死者たちを身近に感じ、「まだここにはいない」未来世代をも身近に感じるという感受性が必要です。私が「霊的」というのはそのことです。天皇が霊的な存在であり、道徳的中心だというのは、そういう意味です。

 

―― 古来、天皇は霊的役割を担ってきました。しかし、そもそも近代天皇制国家とは矛盾ではないか、天皇と近代は両立するのか、という問題があります。

 

現に両立しているじゃないですか。むしろ非常によく機能している。象徴天皇制は日本国憲法下において、昭和天皇と今上陛下の思索と実践によって作り上げられた独特の政治的装置です。長い天皇制の歴史の中でも稀有な成功を収めたモデルとして評価してよいと私は思います。国民の間に、特定の政治イデオロギーとかかわらず、天皇に対する自然な崇敬の念が静かに定着したということは近世以後にはないんじゃないですか。江戸時代には天皇はほとんど社会的プレゼンスがなかったし、戦前の天皇崇拝はあまりにファナティックでした。肩の力が抜けた状態で、安らかに天皇を仰ぎ見ることができる時代はここ数百年で初めてなんじゃないですか。

 

―― 最後に、これから我々はいかに天皇を戴いていくべきか伺いたいと思います。

 

それについては、私にはまだよく分からないです。世界中で日本だけが近代国民国家、近代市民社会の形態をとりながら古来の天皇制を存続させている。霊的権力と世俗権力の二重構造が統治システムとして機能し、天皇が象徴的行為を通じて日本統合を果たしている。こんな国は見回すと世界で日本しかない。どこかよそに「成功事例」があれば、それを参照にできますけれど、とりあえず参照できるのは、過去の天皇制が「うまく行っていた時代」しかない。けれども、それを採用するわけにはゆかない。社会の仕組みが違い過ぎます。

 

かつてレヴィ=ストロースは人間にとって真に重要な社会制度はその起源が「闇」の中に消えていて、たどることができないと書いていました。親族や言語や交換は「人間がそれなしでは生きてゆけない制度」ですけれども、その起源は知られていない。天皇制もまた日本人にとっては「その起源が闇の中に消えている」ほどに太古的な制度だと思います。けれども、21世紀まで生き残り、現にこうして順調に機能して、社会的安定の基盤になっている。いずれ天皇制をめぐる議論で国論が二分されて、社会不安が醸成されるリスクを予想した人はかつておりましたが、天皇制が健全に機能して、政治の暴走を抑止する働きをするなんて、50年前には誰一人予測していなかった。そのことに現代日本人はもっと「驚いて」いいんじゃないですか。