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北星学園での講演(第5回) ☆ あさもりのりひこ No.426 

日本の文科省が行ってきた過去20年間の研究拠点校作りがいろいろありました。COERU11、グローバル30などなど。これについて「孤立した、単発の、アイランド・プロジェクトであり、それゆえ全て失敗だった(It was therefore a total failure)」という総括でした。

 

 

2017年8月31日の内田樹さんのテクスト「北星学園での講演」を紹介する。

どおぞ。

 

 

学術的生産力の指標をいくつか見ておきます。まず、論文の本数。これは2002年から減少が始まって、現在、OECDでは5位です。5位ときくとけっこういいポジションじゃないかと思う人もいるかも知れませんが、1997年から2002年まではアメリカに次いで世界2位だったのです。それがドイツに抜かれ、イギリスに抜かれ、中国に抜かれて5位にまで落ちた。他が論文数を増やしている中で、日本だけが停滞ないし減少している。それから、よく言及される高等教育に対する公的支出のパーセンテージ、これは過去5年連続OECD最下位でした。去年はハンガリーが日本より下だったので、下から2番目になりました。

学術的生産力の指標として一番分かりやすいのは「人口あたり論文数」です。論文数だけ見ても日本はすでに日本より人口の少ないドイツ、イギリスに抜かれたわけですから、人口当たり論文数は悲惨なことになります。2013年が35位、2015年がさらに下がって37位。アジアでも、中国、シンガポールはもとより、台湾、韓国の後塵を拝しています。

海外の学術誌が、世界的に見て例外的な失敗事例として日本を研究対象にするのも理解できます。でも、このことを日本のメディアはほとんど報道していません。それを重大な問題として受け止めている気配もありません。でも、Foreign Affairs Magazineの論調は実に手厳しいものでした。

日本の文科省が行ってきた過去20年間の研究拠点校作りがいろいろありました。COERU11、グローバル30などなど。これについて「孤立した、単発の、アイランド・プロジェクトであり、それゆえ全て失敗だった(It was therefore a total failure)」という総括でした。実感としては、僕もそうじゃないかなという感じがしてはいたのですけれど、まさかここまではっきり海外のジャーナルから指摘されるとは思っていませんでした。

Foreign Affairs Magazine が日本の大学教育の特徴として挙げていたのは、「前期産業社会に最適化した、時代錯誤的な教育制度」であることと「批評的思考(critical thinking)、イノベーション、そしてグローバル志向(global mindedness)」が欠落していることでした。「グローバル化に最適化した教育」とか言ってきた割には、日本の教育には「グローバル志向」が欠如していると指摘されてしまった。「グローバル志向」の定義は「探求心、学ぶことへの謙虚さ、世界各地の人々と共同作業することへの意欲」だそうです。それがない、と。

こうも書かれていました。「日本の教育制度は社会秩序の保持と、献身的な労働者の育成と、政治的安定のために設計されている」と。それが「前期産業社会に最適化した、時代錯誤的な教育制度」ということです。ポスト資本主義の時代に入ろうという移行期に「前期産業社会に最適化した教育制度」で対応しようとしているわけですから、学術的なアウトカムが期待できるはずがない。

 

さすがにここまで言われたのですから、文科省としてはきっちり反論すべきだったと思います。自分たちがやってきたことをほとんど全否定されたわけですから。もし、自分たちの教育行政がそれなりの成果を上げていると信じているなら、論拠を挙げて反論すればよい。バカなことを言うな、自分たちの教育政策はこんなに研究成果を上げているぞ、と。ちゃんと数値的な根拠を示せばいい。でも、文科省はノーコメントでした。まったく反論しなかった。逆に、指摘が当たっていると思ったら、率直に失敗を認めて、これを契機に、何がいけなかったのか、原因を究明すればいい。でも、文科省はそれもしなかった。反論しなかったのは反論する根拠がなかったからでしょう。失敗を認めなかったのは、失敗を認める責任を取らされるからでしょう。だから、失敗しているにもかかわらず、その事実を認めず、それゆえなぜ失敗したのかを吟味することもしなかった。ということは、文科省はこれからも教育行政で失敗し続けるということです。これまでの失敗を認めないということは、失敗事例から学習することを拒否したということです。だったら、同じ失敗をこれからも続ける他ない。有害無益なことだとわかっていても、止められない。止めたら「こんなこと誰が始めたのだ」という責任問題が発生するからです。だから、無駄とわかっていても、止められない。でも、何かしないといけないから、これまでの仕事に追加して、新しい仕事をどんどん課してゆく。でも、教育の現場にいるのは生身の人間ですから、使える時間も体力も限界がある。どこかでバーンアウトする。現に、バーンアウトが始まっている。その結果が、この悲惨な学術的生産力の低下として現象しているわけです。