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仮にも文科省は国民教育を専管する省庁でしょう。そこが「人間は条理ではなく、金で動く」というような人間観を披歴して恬として恥じないというのは、どういうわけです。
2017年8月31日の内田樹さんのテクスト「北星学園での講演」を紹介する。
どおぞ。
シラバスもそうです。あれも全く無駄な仕組みです。でも、シラバスを整備するために教員たちはやはり大変な作業量を費やしている。
シラバスというのは商品の仕様書です。缶詰や薬品についているスペックと同じものです。この商品には何が含有されているか、効能は何か、賞味期限はいつまでか、それを消費者のために表記するものです。でも、学校の授業は乾電池や洗剤とは違います。授業というのは「なまもの」です。1年前に1年後にどんな授業をするのか事細かに書けと言われたって書けるはずがない。専門科目の場合、僕は自分がその日に話したいことを話す。でも、自分が1年後の何月何日にどんなことに興味を持っているのかなんかわかるはずがない。だから「人間について考える」とか「言語について考える」とか、そういうふうな漠然としたものしか書けない。
僕が教務部長だった頃に「シラバスをもっと精密に書くように」というお達しが文科省からありました。でも、僕は教授会で「そんなに詳しく書くことはありません」とつい口が滑ってしまった。そしたら、何も書かずにシラバスが白紙という人が出て来た(笑)。そしたら翌年、助成金が削られました。経理部長からは厭味を言われました。「内田先生のせいですよ」って。
僕はこの時猛然と文科省に対して腹を立てました。僕はシラバスは教育的に意味がないと判断したので、書かなくていいと言ったのです。別にそれは思い付きではなくFD委員長をしていたときの何年間かのアンケート結果を統計的に処理した結果、「授業満足度」と「シラバス通りに授業をしているか?」という問いの回答の間には有意な相関がないということがわかったからです。それ以外のことは「教員の板書はきれいか?」でも、「時間通りに授業を始めるか?」でも「授業満足度」との相関があった。数十の質問項目の中でたった一つ何の相関もないことがわかったのが「シラバス通りに授業をしているか?」という問いだった。だから、意味がないと僕は思ったのです。文科省は「シラバスは教育効果がある」と思っているからそれを精密に書くことを大学に要求してきたわけでしょう。だったら、その根拠を示して欲しい。もし、文科省が「シラバスを精密に書き、シラバス通りに授業をすると教育効果が高まる」という統計的なエビデンスを持っているなら、それを示して欲しい。僕だって学者ですから、エビデンスを示されたら引っ込みます。こっちはせいぜいサンプル何千という程度のデータです。文科省が何十万かのサンプルに基づいて「シラバスの有用性」を証明してくれたら「すみません」と頭を下げます。でも、文科省はそうしないで、ただ助成金を削ってきた。今はシラバスを英語で書けとか、同僚同士で他人のシラバスの出来不出来を査定しろとか、どんどん仕事量が増えていますけれど、そういうことにどのような教育効果があるのか。どんなデータがそれを証明しているのかについては何の情報も開示されていない。これはおかしいでしょう? ことは研究教育に関する話なんですから、研究教育の成果が上がったという実績があることを示した上で実施を求めて来るべきじゃないんですか? でも、文科省はエビデンスを示して、反論することをしないで、ただ金を削っただけでした。これは文科省の方がおかしいと僕は思います。反論しないで代わりに金を削るというのは「人間は条理によってではなく、金で動く」という人間観を文科省自身が開示したということですから。大学人であっても、「やれば金をやる。やらなければ金をやらない」と言えば、したくないことでも、明らかに無意味に思われることでもやる。文科省は人間というのは「その程度のものだ」と思っている。思っているどころか、人間は「そうあるべきだ」と告知している。仮にも文科省は国民教育を専管する省庁でしょう。そこが「人間は条理ではなく、金で動く」というような人間観を披歴して恬として恥じないというのは、どういうわけです。僕は教育活動は効果があることが経験的に知られているものを行う方がいいと思って、そう言った。それに対して教育効果があろうとあるまいと、「お上」の言うことに黙って従え、従わないものには「金をやらない」と文科省は回答してきた。これは事大主義と拝金主義が「日本国民のあるべき姿」だと彼らが信じているというふうに解釈する以外にない。