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北星学園での講演(第19回) ☆ あさもりのりひこ No.451

なぜ教育を行うのか、それは共同体の存続のためです。教育の受益者は個人ではなく、集団そのものなのです。

 

 

2017年8月31日の内田樹さんのテクスト「北星学園での講演」を紹介する。

どおぞ。

 

 

それに加えて、ミッションスクールの場合は宗教が関与してきます。そのせいでふつうの教育機関よりもさらに惰性が強く、抵抗力が強いのだと思います。社会がどう変わっても、政治体制や経済体制がどう変わっても、こういうものは簡単には変わりません。それは、先ほど挙げた教育、医療に加えて、宗教と司法もまた人類史の黎明期から存在した太古的な社会的機能だからです。こういう仕事に就く人には、ある種の固有の「エートス」があると僕は思っています。「なくては済まされない職業」ですから、歴史的な条件がどう変わろうと、「この職業に就きたい」と思う人たちが必ず一定数は出てくる。

人間集団が存続するために絶対に必要な四つの「柱」があると僕は思っています。教育、医療、司法、宗教、この四つです。学び、癒し、裁き、祈りという四つが集団が存続するためになくてはならない四つの基本動作です。集団の若い成員たちに生き延びるための術を教えること、病み傷ついた人を癒すこと、正義を執行すること、死者を悼むこと。この四つの機能はどのような集団であれ、集団が集団として持続するためにはなくては済まされないものです。それに比べたら、市場経済だとか商品だとか貨幣だとかいうものは、あってもなくてもどうでもいいものです。

はるか太古の人間集団がどういうものだったか想像すれば、わかるはずです。集団の若い成員たちの成熟を支援するのは、集団が生き延びるためです。別に若者たちを査定したり、格付けしたり、選別したりするために教育をしたわけじゃない。生き延びるための術を教えておかないと、死んでしまうから教育したのです。狩猟で暮らしている集団なら狩りの仕方を、農耕で暮らしている集団であれば植物の育て方を、漁労で暮らしている集団なら魚の取り方を教えた。生きる術をきちんと伝えておかないと、彼らが飢えて死んでしまうからです。

だから、「大人たち」が「子どもたち」に向けて教育を行う。教育の主体は複数ですし、教育の受け手も複数です。なぜ教育を行うのか、それは共同体の存続のためです。教育の受益者は個人ではなく、集団そのものなのです。

市場経済の原理で教育を語る人たちには、このところがわかっていない。彼らは教育というのをある種の「商品」だと思っている。そこでやりとりされている知識や技術や情報を、自動車や洋服と同じようなものだと思っている。欲しい人が金を出して買う。金がたくさんあれば、よい商品が買える。金がない人はあきらめる。それが当然だと思っている。たしかに、「自動車が欲しい」という人が「あの自動車が欲しいので、税金で買って僕にください」と行政に頼み込むということはありえません。それは自動車を所有することの受益者が個人だからです。でも、教育は違います。教育の受益者は集団全体です。だから、集団的に教育事業は行わなければならない。だから、「義務教育」なのです。大人たちには子どもを教育する義務がある。そうしないと集団が存続できないから。

 

市場原理で教育を考える人はどうしてもこの理路が理解できない。それは彼らが教育の受益者は個人だと思っているからです。個人が学校に通って、それなりの授業料を払い、学習努力するのは、その成果として、有用な知識や技能や資格や免許を手に入れて、それによって自己利益を増大するためだと思っている。それなら、確かに学校教育にかかるコストは受益者が負担すべきものです。金があるものが学校教育を受ける。ないものは受けない。それがフェアだという話になる。