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「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第1回) ☆ あさもりのりひこ No.464

私たちはこの映画が、一九七○年代から九○年代のアメリカのフェミニズム・ムーヴメントの中で急速にその相貌を変容させてゆく女たちと、急変してゆく社会に対してアメリカの男たちが抱いた「関心と不安」を的確に映し出していると思う。

 

 

2017年10月1日の内田樹さんのテクスト「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第1回)を紹介する。

どおぞ。

 

 

リドリー・スコットの『エイリアン・コヴェナント』がいよいよ公開される。

20年くらい前に、『エイリアン』をネタにした映画論とフェミニズム論をいくつか書いた。昔のHPに公開されていたが、今はもうリンクが切れてしまっているので、ネットでは読めなくなった。筐底から引き出して埃をはらってネット上で公開する。何かのコンピレーションに収録されて活字化されたと思っていたが、『映画の構造分析』にも『うほほいシネクラブ』にも収めていなかったので勘違いかもしれない。

最初の『エイリアン・フェミニズム』は1996年に神戸女学院大学の紀要に書いた論文である。『ジェンダー/ハイブリッド/モンスター』はその2,3年後にやはり紀要に書いた。その頃は紀要しか掲載する媒体がなく、「読む人は5人」と言われる学内紀要にたくさん論文を書いていた。大半はその後活字化されて本で読むことができるようになったから、なんでも書いておくものである。

元ゼミ生のreif君によるとWikipediaの「エイリアン」の項にはこの論文からの引用があるそうである。「エイリアン」解釈の一つの定説として評価されているのだとしたら、これほどうれしいことはない。

それにしても20年経つと、90年代というのがいかにフェミニズムが思想的に強い時代だったかよくわかる。私はこの時期ほとんど孤軍奮闘でフェミニズムの「検閲」的体質を批判していたのだが、今読むとなんだか空中楼閣を相手に戦っていたような気がする。

 

 

『エイリアン・フェミニズム-欲望の表象』

世界は書物を介して語られることがなければ、

それほど真実味にあふれたものではないだろう。

ピエール・マシュレ

 

1《屋根の上の赤ん坊》

ある若い夫婦が生まれたばかりの赤ん坊をベビー・ベッドにのせてドライブにでかけた。途中で車がオーヴァーヒートしたので、夫婦は車を止めてエンジンを冷やすことにした。少しでも涼しいようにと赤ん坊はベビー・ベッドごと車の屋根に乗せた。そのうち若い夫婦は言い争いを始めた。エンジンが冷え、車が走り出してもまだ車内では怒鳴り合いが続いた。そのうちに二人はふとさきほどから赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついた……。

「友だちから聞いた本当の話」という枕を振って始まるこの種の「奇譚」を社会学は「都市伝説」(urban legend)と呼ぶ。J.H.ブルンヴァンはその都市伝説研究の中で、この「屋根の上の赤ん坊」のヴァリエーションが全米にひろがっていることを確認している(1)。

「屋根の上の赤ん坊」は、若くして子供を持ってしまったため、身の丈にあわない社会的責任を押しつけられることになった若い夫婦の心にきざした不意の殺意に触れている。ストレスフルな育児のさなかに「この子さえいなければ……」という悪意の訪れを経験したことのある親は少なくないはずだ。しかしその欲望を意識することには強い禁忌が働いている。欲望がありながら、倫理や慣習がそれを意識し表現することを固く禁じているとき、ひとはその欲望が書き込まれた「物語」を必要とする。都市伝説はそのような欲望が要請した物語群である。

この都市伝説は「完全に伝統的な民話の要素―お粗末な親、捨てられた赤ん坊、奇跡的な救出―から成り立っている。そしてすぐれた民話がすべてそうであるように、われわれのきわめて根源的な情を揺さぶると同時に、ある特定の時代・場所における関心事と不安を反映している」(2)とハロルド・シェクターは書いている。

 

アカデミー賞二部門にノミネートされ、主演のマコーレー・カルキンを一躍スターダムに押し上げた1990年の大ヒット映画『ホームアローン』Home alone はクリスマス休暇にパリへでかける大家族が、末っ子をうっかり家に置いてきてしまうという「意外」な設定から始まるが、このプロットは実は「子捨て」民話の元型を忠実になぞっている。

映画のハイライトは、パリ行きの飛行機の中で母親が「何かを忘れたような気がする」と不安にかられて、突然子供を忘れてきたことを思い出す場面であるが、これは「屋根の上の赤ん坊」の「赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついて……」というクライマックスと話型的には同一である。

「親が子を捨てる」話はヨーロッパの多くの民話に見ることができる。

ロバート・ダーントンによれば、「子供を捨てるというモチーフは『親指小僧』の農民版にもそのほかの民話にも存在するし、嬰児殺しや幼児虐待も様々な形をとって物語に登場する。ときには両親が子供を追い出して、乞食や泥棒にしてしまうこともある。両親自身が逃亡して、家に残された子供たちが物乞いをして生きるという場合もある」(3)。

エリザベト・バダンテールによれば、親による(直接的あるいは間接的な)「子殺し」は十九世紀まで良心の咎めなしに行われていた。例えば、一八世紀のフランスでは、母親が手もとで子どもを育てる習慣がなく、多くの幼児は生まれるとすぐに乳母に預けられた。(その数は一七八○年のパリでは、一年間に生まれる二万一千人の乳児のうち一万九千人に及んだ。)(エリザベート・バダンテール、『母性という神話』、鈴木晶訳、筑摩書房、1998年、84頁)里子に出されたものの生存率は低かったが、両親に育てられた幼児も決して安全ではなかった。繰り返し教会が禁止を命じたにもかかわらず、幼い子どもを両親といっしょに寝かすという習慣は根強く、そのために幼児が窒息死するという事例が頻発したし、衛生についての初歩的な注意を母親も乳母も組織的に怠っていた。これは「家族内の子どもの数をふやさないための方法」だったのではないかという疑問をバダンテールは呈している。(同書、92頁)

しかし、グリム兄弟が民話の採集を始めた一九世紀のはじめ頃から、「愛し合う家族」という近代的な家族概念が定着し始め、「子供を捨てる」話型をストレートに表現することに対する心理的な禁忌が働き始めた。こうして、「実母」は「継母」に書き換えられ、「子捨て」は「親が意図せず、偶然に、きわめて危険な状態に子供を放置してしまう」という屈折した話型を迂回することになった。『ホームアローン』はその意味で『ヘンゼルとグレーテル』の現代ヴァージョンとして解釈することができる。

 

シェクターによれば、都市伝説は二つの要素から成っている。一つは人類全体に共通する「元型的な空想」あるいは「集合的無意識」である。もう一つは「特定の時代・場所における関心と不安」である。

「元型的空想」と「歴史的・場所的に条件づけられた不安」とがリンクしてはじめて「ポピュラー」な都市伝説は成立する。そして、そのような都市伝説の機能はなによりも大衆の「抑圧された欲望」に「物語」としての表現を与えることにある。

シェクターの仮説に基づいて私たちが以下で分析を試みる都市伝説は映画『エイリアン』シリーズ、すなわちリドリー・スコットの『エイリアン』Alien 1979、ジェームズ・キャメロンの『エイリアン2』Aliens 1986、ディヴィッド・フィンチャーの『エイリアン3』Alien 3 1992、である。(自注:この論考が書かれたのは1996年、まだジャン=ピエール・ジュネの『エイリアン4』Alien: Resurrection 1997は映画化されていなかった)。

私たちが注目するのは、十三年間三作にわたるこのシリーズをつらぬく「不変の」元型的空想ではなく、むしろ映画を取り囲む社会感受性の「変化」である。

『エイリアン』を構成している「元型的な空想」は「体内の蛇」という古典的話型である。次章で考察するが、その話型の意味するところを理解するのは難しい仕事ではない。しかし、私たちの「根源的な情を揺さぶる」その元型的話型が、ときどきの社会的感受性の変化に対応して、どのような現代的な恐怖譚に「書き換えられている」のかを特定することは、それほどには容易ではない。

私たちはここでのシェクターの言う「歴史的・場所的に条件づけられた不安」は、アメリカにおける女性の社会的役割の変化によってもたらされたと考えている。このいささか唐突な着想の妥当性を論証するためには少なからぬ頁数が必要であるだろう。

私たちはこの映画が、一九七○年代から九○年代のアメリカのフェミニズム・ムーヴメントの中で急速にその相貌を変容させてゆく女たちと、急変してゆく社会に対してアメリカの男たちが抱いた「関心と不安」を的確に映し出していると思う。そして、この「関心と不安」に培われた「欲望」がどのようにしてこの血なまぐさい物語群のうちに繰り返し回帰することになったのか、それをあきらかにして行きたいと思う。