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奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り(第3回) ☆ あさもりのりひこ No.467 

事実、『エイリアン』においてリプリーはよかれあしかれほとんど伝統的な女性の徴候を示さない。彼女は女性的コケットリーによって船内の雰囲気をやわらげようともしないし、男性隊員にコーヒーをいれもしないし、無原則な包容力も示さないし、男性隊員の誰に対してもいかなる性的な関心も示さない。リプリーはただ男たちと同じように不機嫌な顔で黙々とコーヒーを飲み、煙草を吸い、自分の仕事をするだけだ。エイリアンをダクトに追いつめるという危険な任務にも、当然のことのように志願するし、船長の死後は序列に従って指揮官となる。彼女は女性であることをいかなる免責事由にも用いない、女性であることからいかなる利益をも受けていない。

 

 

2017年10月1日の内田樹さんのテクスト「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第3回)を紹介する。

どおぞ。

 

 

3《性関係と映像》

 70年代のアメリカ映画に顕著に現れた一つの傾向について、フェミニズムの立場からE.アン・カプランはこう書いている。

 「70年代の終わりになると、もう一つの傾向が商業映画の主流に現れた。それははっきりと女性を観客対象とし、フェミニズム運動が提起した問題をとりあげようとする動きである。(…)これらの映画の内容を提供したのは、映画をとりまく社会的・経済的・文化的な要因である。すなわち女性の教育や雇用問題に生じた顕著な変化、女性解放運動や避妊の方法の普及がもたらした性関係・性意識の変化、そして結婚と離婚のあり方の変化、などである。(…)これらの映画は、女性の新しいあり方を受け入れる用意のまだできていない父権社会で、新しい役割を果たしはじめた女性たちが直面する問題、彼女たちの矛盾にみちた要求をとりあげ、描こうとしている」(4)。

 これらのハリウッド映画に共通するのは、「新しい女性」たちが、当然ながら彼女のあり方を認めようとしない「父権制社会」の執拗な暴力にさらされるという状況設定である。

 女性の自立を阻止せんとする男性側からの暴力をリアルに描くのは、ある意味では「父権社会」の醜悪さを暴露するという「教化的」効果を持つだろう。

 70年代末のアメリカ映画は「よい意味では女性の要求をとり入れ、悪い意味でそれを懐柔する方向に動きだした」とカプランは認識している。

 79年作品である『エイリアン』は主人公にアグレッシヴな顎とボーイッシュで巨大な体躯の持ち主である新人女優シガニー・ウィーヴァーを起用した。それまでのハリウッド・スターのカテゴリーにはあきらかに収まらないこの女優は、「新しい女性」を描こうとする制作者の期待に応えて、フェミニズム興隆期におけるアメリカの若い女性たちの上昇的なはりつめた気運をみごとに表現してみせた。

 彼女の演じる宇宙飛行士リプリーは、その職責を誠実につとめ、つねに男性隊員に伍して労働し、パニックになっても冷静さを失わず、適切な仕方でエイリアンとの闘争を指揮し、結果的にただ一人の生存者として勝ち残る。この映画は女性主人公が、襲いかかる暴力に対して、男性保護者に依存することなく、また「女性的」奸智を駆使することもなく、ストレートな暴力にストレートな暴力を以て対処し勝利するという、ハリウッド映画にとって画期的なプロットを提供した。

 白馬の王子様の到来を待たず、自力で城を奪還する闘う「眠れる森の美女」。(最後の闘いのときリプリーが身にまとう宇宙服は騎士の鎧を象っている。)女性の自立を映像的にサポートするという点について言えば、『エイリアン』はたしかに「よい意味では女性の要求をとり入れ」た映画であると言えるだろう。

 しかし、「父権制社会」の剥き出しの暴力にさらされて戦うヒロインを描くことは、見方を逆にすれば、「父権制社会」に楯突く「生意気な」ヒロインが、父権制的な暴力にひたすら暴行され、凌辱され、その無謀な野心にふさわしい制裁を受ける映像を描くことでもある。

 全編が暗くじめついた宇宙船の中で展開する「ドラゴン&ドンジョン」型RPGにも似たこの武闘劇は、そのような意味では、フェミニズムへの応援歌にしては、あまりにも暗い情念をはびこらせている。おそらくそれは戦う「新しい女性」の不安と、それに脅威を感じている男性の不安の双方を投影した結果である。70年代末のアメリカ社会の性関係の未来に対する不安が全編を領している。そしてその不安の映像的な焦点となっているのが「体内の蛇」である。

 私たちはさきに「体内の蛇」の物語は、女性からする、「男性の自己複製の道具であることの拒絶」、つまり「妊娠と生殖への無意識的な忌避の欲望」の吐露であると書いた。だとすれば、フェミニズム映画としての『エイリアン』もまた「女性としての伝統的な社会的役割の拒絶」のメッセージを発信しているはずである。

 事実、『エイリアン』においてリプリーはよかれあしかれほとんど伝統的な女性の徴候を示さない。彼女は女性的コケットリーによって船内の雰囲気をやわらげようともしないし、男性隊員にコーヒーをいれもしないし、無原則な包容力も示さないし、男性隊員の誰に対してもいかなる性的な関心も示さない。リプリーはただ男たちと同じように不機嫌な顔で黙々とコーヒーを飲み、煙草を吸い、自分の仕事をするだけだ。エイリアンをダクトに追いつめるという危険な任務にも、当然のことのように志願するし、船長の死後は序列に従って指揮官となる。彼女は女性であることをいかなる免責事由にも用いない、女性であることからいかなる利益をも受けていない。

 ではリプリーは完全にニュートラルな存在として描かれているのかと言えば、決してそうではない。彼女はこの映画の中で二回「女性的」弱点を見せる。

 一回目はエイリアンを生きたまま持ち帰れという《会社》の指示に従って、乗組員を犠牲にしてもエイリアンを「保護」しようと企てるサイエンス・オフィサーのアッシュによって暴行を受ける場面。ここでリプリーは映画の中でただ一度だけ男性のすさまじい暴力に屈服する。

 見落としてはらない徴候は、このときアッシュが彼女を窒息させようとして、口の中に丸めた雑誌をねじ込もうとすることである。乱闘が行われるのは船内の食堂で、押し倒されたリプリーの後ろの壁には『プレイボーイ』風のヌード・ピンナップが貼りめぐらされている。アッシュは手近の男性誌をつかんで、それをリプリーの口にむりやり押し込む。

 丸めた雑誌を口に押し込むというのは、どう考えても窒息死させるために有効な方法ではない。これはむしろ象徴的に解釈されるべきだろう。あらゆる場面で女性らしくふるまうことを忌避しているかに映るリプリーに対して、ここで男性側からの「制裁」が加えられるのだ。

 丸められた男性雑誌は、50年代まではアメリカ男性の誰ひとりとしてその正当性を疑うことのなかった「女性を男性の性的愛玩物として消費する文化」を象徴している。リプリーが映画の中で一貫して踏みにじってきたのがこの時代遅れの性幻想であるとすれば、「男性」によって彼女の「口に挿入された」「男性誌」がその「父権的文化」の報復のかたちであることはほとんど論理的に自明である。(『エイリアン2』においても、《会社》の指示に従わないリプリーを黙らせるために、《会社》の代理人であるバークによって彼女の「口」に「凶器」が挿入される。いずれの場合も《会社》の大がかりな企業戦略を「告発」しようとするリプリーの「口」は擬似的なファルスによって封じられるのだ。)

 もう一つの彼女の女性的徴候は、母船を爆破して脱出するという最後の場面でリプリーが猫を探しに行くという致命的なミスを犯すエピソードに見られる。

 リプリーはここで映画の中でただ一度だけ情緒的弱みを見せる。爆破まで残り数分というせっぱ詰まった状態で、生き残った他の二人の乗組員が脱出に必要な酸素を荷積みするという緊急な作業に携わっている間、彼女は「猫を探している」のだ。

 「猫探し」に手間取ったためにリプリーは仲間二人の救出に間に合わず、脱出用シャトルにエイリアンが乗り込む時間的余裕を与えてしまう。それほどのリスクを冒してまで、リプリーは「猫探し」のために船室をはいまわり、みつけた猫を熱情的に抱き締める。いったいなぜ猫はこの局面でそれほどまでにリプリーを引きつけるのか?仲間と自分自身を危険にさらすどのような価値が猫にはあるのか?

 英語話者ならすぐに気づくことだが、「猫」(pussy)は俗語で女性性器を意味する。「忘れてきた「猫」を探しに戻る」という話型は、それまであえて忌避してきた女性性が、決定的局面に臨んだときにいたって、実は「かけがえのないもの」であったことにリプリーが気づいたことを意味している。「猫」は女性がいかに逃れようと望んでも決して逃れることのできない「セクシュアリティ」の記号である。

 ここでもまた映画はアッシュの暴行と同じメッセージを発信している。

 

 いかに女性性を拒もうとも、「決定的局面」に至れば、女性は「女であること」からは逃れられない。そして彼女が「女でしかない」ことを暴露するとき、「男の暴力」の前に屈服する他ないのである。