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「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第4回) ☆ あさもりのりひこ No.468

「母子が密着していること」よりも「母子が離ればなれでいること」の方が生産的であり、母の能力開発にプラスであり、それが最終的には子どもの利益となるのだ、というメッセージが声高に叫ばれる。

 

 

2017年10月1日の内田樹さんのテクスト「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第4回)を紹介する。

どおぞ。

 

 

4《母性の復権》

 カプランはさきの書物でハリウッドを「ブルジョワ機構」と規定し、そこで生産される映画は「男性的利益」にもっぱら奉仕するものであって、女性に「どんな主張も可能性も欲望の充足も許さない制度」の中に彼女たちを幽閉するためだけに機能しているというかなり一面的なきめつけを行っている(5)。

 しかし、それでは現に女性観客がハリウッド映画に熱狂していることについて納得のゆく説明ができないだろう。映画はカプランが考えているほどに単純なものではない。(カプランがアメリカ映画について言うように、あるいはジュディス・フェッタリーがアメリカ文学について言うように、それらすべてが単なる「父権制イデオロギーのプロパガンダ」にすぎないのなら、彼女たちがなすべき緊急のことは、映画や文学「について語ること」ではなく、アメリカにおける映画や文学の生産と消費をただちに「禁止する」ことであろう。しかし、彼女たちもその禁止運動がアメリカ女性のマジョリティの支持を得る見通しがないことは分かっているのである。)

 実際には、大衆的な支持を集める映画はつねにアンビヴァレントな映画である。あるレヴェルで語られていることと、別のレヴェルで語られていることが平然と矛盾している、そのような映画にだけ、私たちは惹きつけられる。すぐれた物語は、ある水準における言語的メッセージは、必ず別の水準における非言語的メッセージによって「否定」される。

 敵役が十分に魅力的でなければ主人公の勝利は高揚感をもたらさない。流血の惨事がなくては平和の価値は分からない。戦争の悲惨さを伝えるためには戦争から快楽を得ている人間が描かれねばならない。世界が錯綜していること、あるものの快楽は別のものの不幸と背中合わせになっていること、私たちを惹きつける物語は、つねにそのような仕方で重層的である。

 『エイリアン』は「私たちを惹きつける物語」に必要なアンビヴァレントな構造を備えている。あるレヴェルで見ると、映画は七〇年代の女性観客に対して、新しいヒロインの誕生を告げ、女性の未来についての希望を語っているかに見える。しかし、別のレヴェルでは、その女性たちに対する「父権制社会」の側からの剥き出しの攻撃性が映像的に誇示されている。女性が「ドラゴン」と闘う話型は「フェミニズムを懐柔する」。他方「女性が女性的でなくなること」によって受ける制裁を映像的に飽食させることによって映像は「父権制的観客」の邪悪な欲望をも満たしている。『エイリアン』はその時代の欲望と不安をそのような仕方で映像的に定着することによって大きな商業的成功を収めた。

 『エイリアン2』は七年後の一九八六年に製作されたその続編である。この映画はその時代におけるフェミニズムの最大のトピックであった「母性」の評価についての同じくアンビヴァレントな社会的感受性を映像化して大きな成功を収めた。

 『エイリアン2』は前作の五七年後の未来が舞台となる。ノストロモ号最後の生存者リプリーは長い宇宙漂流の果てサルヴェージ・シップに救助される。《会社》はエイリアン襲撃という彼女の説明を受け入れず、彼女は飛行士の資格を剥奪され、身寄りも知人も死に絶えた未来社会で、肉体労働者として、夜毎エイリアンが自分の腹を喰い破って出現する悪夢にうなされながら暮らす。

 《会社》はエイリアンの卵が発見された星に宇宙植民地を建設していた。その植民地星が不意に通信途絶し、リプリーはアドヴァイザーとして宇宙海兵隊とともにその星を訪れることになる。

 植民地星ではひとりの少女をのぞいて植民者全員がエイリアンの卵を産み付けられた「フェイス・ハガー」の培養体に化しており、海兵隊もたちまち壊滅の危地に追い込まれる。再びエイリアンとの闘いを強いられたリプリーは、とらえられた少女を救出するために、無数の卵を生み続ける「女王エイリアン」にフル武装で対決する……。

 この映画は母性についての対立する二つの対抗的な話型を繰り返す。

 劇場版ではカットされ、ディレクターズ・カットで回復した挿話によれば、リプリーには一人の娘がある。娘はリプリーが宇宙を漂流している間に六六歳で死んでいる。リプリーは「外で働いていたために」自分のただ一人の子供の人生に全くかかわることができなかったわけである。これは「母性が十全な機能を果たさなかった」マイナスの徴候と見なすことができる。

 一方、リプリーは植民地星で奇跡的に生き残った少女ニュートに強い母性的感情を抱く。エイリアンの襲撃からのただ一人の生存者であり、恐怖の経験を共有していることが二人を深く結びつける。リプリーとニュートの擬似的母子関係を描く場面で、リプリーは前作では「猫」に対してのみ示した情緒的な「甘い」表情を見せる。彼女がさまざまな危機からニュートを守り、最後に命がけでニュートを救出に敵地に乗り込むシーンがこの映画のハイライトだが、そこで高らかに歌われるのは「母の愛は海よりも深い」そして「母は強し」というほとんどメロドラマ的なメッセージである。

 これは、「子供を家に残して外へ働きに出て自己実現したい」という自立を求める気分と、「子供の保護をすべてに優先したい」という気分のあいだに引き裂かれて、いずれとも決めかねている八○年代アメリカ女性の内的葛藤をみごとに映し出している。

 そして、最終的に映画のストーリーラインは「子供を見捨てる」女性は罰を受け、「子供を守る」女性は報われるという、どちらかと言えばやや懐古的な母子関係に与しているかに見える。

 しかし母性の評価にかかわる映像記号はそれほど単純ではない。いま論じたのとは違うレヴェルにおいて、つまりリプリーと「女王エイリアン」の対立においては別様の「母子の物語」が語られているからである。

 巨大な「女王エイリアン」は植民地星の地下深くに営巣し、ひたすら卵を排出し続けるだけの生殖機械である。「女王」と遭遇したリプリーは火炎放射器で卵を残らず焼き払う。しかし「女王」は産卵管に繋縛されているために身動きならず、卵が破壊されるのを傍観するばかりで、それを阻止することができない。

 生殖に専念したために結果的に種族に壊滅的な被害が及ぶのを阻止できなかった「女王」。「家」に閉じこもって「育児」に専念していたために社会的能力を失ってしまった「母」。これは「過大評価された母子関係の否定的側面」を意味するだろう。

 産卵という任務から子供たちの死によって解放された「女王」は、ただ一人で侵略者リプリーと闘う。映画の最終場面で二人の「母」は一対一で激突することになるのだが、結果的には肉体労働の経験によって宇宙船内の機材の運用に習熟したリプリーが「女王」を船外に叩き出して勝負を決する。社会的スキルに習熟していない母性はここでも「働く女性」の前に一敗地にまみれる。

 表層における「母性賛歌」とはかなり矛盾する映像的なメッセージがここには盛り込まれていることが分かる。

 映画の中の母子関係とその記号的意味をもう一度図表化してみよう。

(1)「外で働いていたために、娘の死に目に会えなかった母親」であるリプリーは「母が外に働きに出て死んだために、ひとり放置された娘」であるニュートと擬似的な母子関係をもつ。(この説話群のメッセージは「母親が子どもを置いて外へ働きにでると、母子はともに孤独になる」である。)

(2)ニュートの墜落によって、リプリーたちは無用な危険を冒すことを強いられる。卵はエイリアンたちの集団の《弱い環》であり、産卵のために母親は身動きできず、そのため女王は焼死の危険にさらされる」。(この説話群のメッセージは「母子関係が緊密であると、母親は無用の危険に身をさらすことになる」である。)

(3)「娘の救出のためにリプリーは例外的に高度の戦闘力を発揮する」。「死んだ卵の報復のために女王は例外的に高度の戦闘力を発揮する」。(この説話群のメッセージは「母子関係が切り離されると、母親の戦闘能力は向上する」である。)

(4)「社会的スキルの運用に習熟したリプリー」が「情緒的に暴れ回る女王エイリアン」に勝利する。(この説話のメッセージは「外で働く母親は子供を幸福にする」である。)

 映像の記号はごらんの通り、さまざまな矛盾するメッセージを発信している。とはいえそれらのメッセージは均等に配分されているわけではない。劇場公開版においては、さきに述べたようにリプリーに娘がいたエピソードがカットされているばかりでなく、ニュートの両親が宇宙船探検にでかけてエイリアンを発見し、植民地星の全滅の要因を作るという部分もカットされている。つまり「外で働く母親は子供を幸福にしない」という説話的メッセージは「商業的な理由で」集中的に削除されているのである。(市場原理はつねに無意識的な淘汰圧として機能する。)

 一方、「母子関係が緊密であると、母親は危地に追い込まれる」というメッセージは「ニュートを寝かしつけるために添い寝しているうちにエイリアンの侵入を許してしまう」挿話や「ニュートが足を踏み外したために脱出のチャンスを逸する」挿話で執拗に強調される。

 そして「母子の別れ」は悲劇性を払拭され、むしろ劇的興奮を盛り上げるサスペンスとして功利的に活用される。「母子が密着していること」よりも「母子が離ればなれでいること」の方が生産的であり、母の能力開発にプラスであり、それが最終的には子どもの利益となるのだ、というメッセージが声高に叫ばれる。かくして、「外で働く女性」リプリーが「出産育児の専門家」である女王エイリアンを叩き潰して映画は終わる。

 ロビン・ロバートはこの映画が「二つの母性の葛藤」であることを正しく指摘した上で、これが「明確にフェミニズム的な映画」であると賞賛している。

 「キャメロンとハードによって提出された母性のヴィジョンは、確かに、女性の可能性を示し、母性の選択という新しい方法の実践によって、生物学から解放された女性のヴィジョンを示しているのである」(6)。

 ロバートはエイリアンが象徴する「生物学的母性」とリプリー=ニュートの体現する「養子型母性」の葛藤のドラマとして映画を解釈し、後者のうちにフェミニズムの希望を見いだしている。

 

 『エイリアン2』が「対等なパートナーシップ」に基づいた「新しい母性の定式化」に成功したというロバートの結論は同意しがたいけれども、この映画が「仕事をしようか、それとも子どもと家庭にとどまろうか」逡巡していた八〇年代のアメリカ女性たちに向けて、「母親が仕事をすればするほど子どもは幸福になる」というたいへん耳に快いメッセージを送ったことは間違いがない。