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「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第6回) ☆ あさもりのりひこ No.471

単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である。(それは「プロパガンダ」にすぎない)。矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は「質の高い物語」である。

 

 

2017年10月1日の内田樹さんのテクスト「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第6回)を紹介する。

どおぞ。

 

 

6《物語》のために

 『エイリアン』というSFホラーは全編が性的なメタファーに溢れている。H.R.ギーガーがデザインしたエイリアンの頭部の完全にファルス的な形態や、その先端の開口部から垂れ落ちる半透明の粘液、襲撃の直前にぬらぬらと「勃起」してくる突起を思い出せば、エイリアンが男性の攻撃的な性欲の記号であることははじめから分かっていたことだった。

 どこからでも侵入し、不死身で、獲物の殺害と生殖しか念頭になく、《会社》の手厚い保護を受けたエイリアン。女性は「それ」とどう闘うべきかという切実で刺激的な主題をめぐって製作されてきたこのエイリアン・シリーズは、しかしながらここできわめてネガティヴで一面的な結論とともに幕を下ろした。

 《会社》(この宇宙に遍在する全能の組織体はもちろん「父権制社会」のメタファーである)の指示に従わず、妊娠・出産・育児を拒否し、女性的な徴候を身にまとうことを忌避してきた罪科によってリプリーは「殺される」。男に従わない女は罰される。それが第三作が下した「教訓」である。

 六000万ドルの制作費を投じたにもかかわらず『エイリアン3』は興行的には失敗し、批評も芳しくなかった。多くの批評家はこの映画の「ニヒリズム」と「寒々しさ」を指摘した。それが九〇年代アメリカの現実の性関係の「ニヒリズム」と「寒々しさ」をどの程度投影しているのか、私たちには分からない。

 しかし六〇年代以降「右肩上がり」に推移してきたアメリカのフェミニズムに対して、アメリカ男性の側に根深い悪意がわだかまってきていること、そして「父権社会の規範を無視して自由にふるまう女たちのもたらす災厄」を描いた物語が近年集中的にマイケル・ダグラス主演で映像化されているという徴候は指摘しておく価値があるだろう。(『ローズ家の戦争』The War of the Roses,1989 『危険な情事』Fatal Attraction 1987、『氷の微笑』Basic Instinct 1992、『ディスクロージャー』Disclosure1994、『ダイヤルM』The Perfect Muder 1998 )マイケル・ダグラスはこれらの一連の映画で、当代のハリウッド・スター女優を次々と「殺し」、男性観客にカタルシスを味あわせた。(「殺された」のは、キャサリン・ターナー、グレン・クローズ、シャロン・ストーン、デミ・ムーア、グイネス・パルトロゥ) 

 このような映像に「女性嫌悪」の徴候を指摘することはむずしいことではない。その背後にひそむ欲望や不安を暴露することも、それについて教化的な言説を編むことも、場合によってはそのような表現の規制を求めることもできないことではない。(『氷の微笑』に対しては上映禁止運動が試みられた。)しかし、そのような非難、批判、告発、暴露、断罪といったみぶりをいくら繰り返そうとも、「抑圧された悪意」はそれをより巧妙に隠蔽する別の物語を迂回してゆくだけで消失するわけではない。

 私は『エイリアン3』は駄作であると思うが、その理由は映画が「女性嫌悪」的だからではない。(前二作においても父権制社会における「新しい女性」への処罰という話型は繰り返されていた。)第三作が駄作なのは、それが「女性嫌悪」というメッセージ「しか」発信していないからである。

 単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である。(それは「プロパガンダ」にすぎない)。矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は「質の高い物語」である。

 「質の高い物語」は私たちに「一般解」を与えてくれない。その代わりに「答えのない問題」の下に繰り返しアンダーラインを引く。私たちは「問題」をめぐる終わりのない対話、終わりのない思索へと誘われる。

 大衆芸術としての映画はそのような仕方で現実的な矛盾を矛盾のまま提出し、その「解決」を宙づりにし、「最後の言葉」を先送りしてきた。もしマルクスが20世紀に生きていたらきっと「映画は人民の阿片である」と言っただろう。マルクスが言わなければ私が代わりに言ってもいい。「映画は人民の阿片である」。

 しかし私たちの欲望や不安はつきるところ「物語」として編制されており、それは「物語」として紡がれ、また解きほぐされてゆくほかないのである。

 

 私たちが映画に望んでいるのは「最終的解決」ではない。ラストシーンに私たちが見たいのは to be continued の文字なのである。