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「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第8回) ☆ あさもりのりひこ No.473

キャリア指向か家庭回帰か?八〇年代フェミニズムが直面したこの緊急な問いに『エイリアン2』はみごとな映像的回答を提出して、大きな商業的成功を収めた。

 

 

2017年10月1日の内田樹さんのテクスト「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第8回)を紹介する。

どおぞ。

 

 

 私たちはさきに『エイリアン・フェミニズム』という題名の論考において、一九七九年から一九九二年にかけて製作され、大きな商業的成功を収めた『エイリアン』シリーズ三作を物語論の視点から分析した。そのとき、私たちはこの連作の中心にあるのは、「体内の蛇」という説話的原型であるとするハロルド・シェクターの仮説から出発した。(3)

 一九七〇年代の終わりにこの説話原型は『エイリアン』として蘇った。この「体内の蛇」話型の復活はアメリカにおけるラディカル・フェミニズムの興隆期と同調していた。夫に仕え、不払いの家内労働を担い、子供を産み、育てるために存在するような依存的な生き方を否定し、自己実現のために自立して生きたいという強い指向がこの時期のアメリカ女性のあいだにみなぎった。だから、「自立する女性」リプリーが男性の自己複製欲望の記号である「蛇の怪物」とただひとりで戦い、それに勝利する物語は、当時のアメリカ女性の自立志向のたかまりにジャスト・フィットしたのである。

 エイリアンが表象する男性の攻撃的性欲と女性はどう闘うか。この切実で刺激的な主題をめぐってシリーズは製作されてきた。そしてそれは同時に、フェミニズムの「検閲」によって抑圧された男性の性的欲望と、激しい女性嫌悪が、つぎつぎと「偽装」のうちに再帰する、プロテウス的変身の歴程でもあった。

 『エイリアン』はプロットの上では、フェミニズムの「検閲」をクリアーするきわめてコレクトな映画であるが、その一方で、エイリアンの造型にはっきり見て取れるように、映像的な水準では、男性の「インコレクト」な性欲があからさまに、執拗に描き出されていた。

 サイエンス・オフィサーのアッシュがリプリーに暴行をふるう場面では、「セクシスト的空間」の中で、彼女の口に擬似的な男性器が「挿入」されるし、半裸のリプリーを攻撃するために身を起こすときのエイリアンの頭部のシルエットはあからさまに勃起した男性器をかたどっていた。アンドロイドであるアッシュも、エイリアンも「男性」ではない。だからプロットの水準では、これらのシーンが性的攻撃を「意味する」ことはありえない。しかし、「ぼんやり映画を見ている」男性の観客は、彼らの抑圧された攻撃的性欲を直接的にみたすのに十分エロティックな映像的表現をあやまたずスクリーンの上に見出すことができたのである。

 『エイリアン2』は成功した「女性映画」(少し意地悪く言えば「女性観客から金を搾り取る映画(feminine exploitation movie)」)だった。この映画はフェミニズムの対立する二つの陣営(ラディカル・フェミニズムとフェミニズム本質主義)から課された二種類の「検閲」をのがれるために、両方の要請に同時に応えるというアクロバシーを演じてみせた。

 この「二つのフェミニズム」の葛藤は、八〇年代に入って、「フェミニズム本質主義」というあらたな思潮が出現したことに始まる。フェミニズム本質主義とは、女性性を本質的なものとして認め、その逆説的優位性を説く立場である。

 フェミニズム本質主義によれば、女性は「帝国主義国家対植民地」、「抑圧者対被抑圧者」、「中心対周縁」、「文明対自然」といった二項対立図式の、後の項に固定される。女性は被搾取者であり、被抑圧者であり、踏みにじられた大地であり、汚された母なる自然である。それゆえ、女性は(かつてプロレタリアートや民族解放闘争の戦士がそうであったように)その政治的な負性の代償に「正義」の請求権を手に入れる。

 「差別されてきたものだけが弱者の痛みを理解できる」、「周縁に排除されてきたものだけが制度への異議申し立てを行いうる」といったツイストの利いたロジックによって女性性の優位を説いたこの理説は(イリガライ、クリステヴァらの「フランス・フェミニズム」に理論的に依拠しつつ)八〇年代のアメリカにおいて、それまで過度に貶められてきた母性や育児や家事労働や家庭の価値の見直しへと女性たちを導くことになった。

 上野千鶴子によれば、この「転向」をもたらした理由のひとつは、ラディカル・フェミニズムの担い手たちがこの時期に「母になる生物学的タイムリミット」を迎え、「七〇年代にはキャリアの確立を優先した女性やレズビアンの女性たちが、八〇年代になって三〇代のかけこみ出産ブームをつくった」ことにある。「彼女たちは男性との関係には希望を抱いていなかったが、母性の価値を捨てようとは思わず、八〇年代アメリカのフェミニズムは母性と家庭の価値の再評価に向かった。」(5)

 

 キャリア指向か家庭回帰か?八〇年代フェミニズムが直面したこの緊急な問いに『エイリアン2』はみごとな映像的回答を提出して、大きな商業的成功を収めた。

 キャメロンは二種類のフェミニズムから課された「検閲」を同時にクリアーするという離れ業を演じつつ、『エイリアン』の場合と同じく、男性観客のためのささやかな悪意のスパイスを映像の細部に仕掛けてみせた。『エイリアン2』は、どちらにせよフェミニストが手に入れられた「家庭」がどのようなものでありうるか、そのモデルを映画のラストで映像化してみせる。それは「母親」でありかつ「キャリア・ウーマン」であるリプリーと、そのレプリカであるニュートが作る疑似的母子関係に二人の「不能の男性」を配した聖家族である。

 マイケル・ビーン演じるヒックス伍長は外見的にはマッチョであるが、断片的な映像が繰り返し示すとおり「視る能力のない」男である。彼は「暇さえあれば眠る男」として登場する。エイリアン掃討戦のあいだ彼が口にする言葉は「どこにいる!見えない!」であり、医務室でエイリアンに襲われたリプリーが救援を呼ぶときにはモニターを見落とし、リプリーと女王エイリアンの戦いのときには麻酔を打たれて眠っており、映画の最後の人工冬眠器に収まるシーンでは目を包帯に覆われて横たわっている。

 ヒックスについてまわるこの執拗なまでの「視る力の欠如」は「不能」の記号と解釈することができる。フェミニズム映画論の文脈では、「視る」とは「支配する」の同義語であり、「女性を見る男性の視線」―「三重の男性的視線」(triple male gaze)すなわちカメラの眼、俳優の眼、観客の眼―は窃視的暴力そのものであるとされる。だとすれば「視ることのできない男」ヒックスの男性性は映像的に「去勢」されていたことになる。

 

 アンドロイドのビショップ(ランス・ヘンリクセン)も別の意味できわだって「非男性」的な存在である。彼は無性の人造人間であり、その男性的外見は単なる仕様にすぎない。彼はクルーの全員から「無償の労働」と「死を顧みない献身」を当然の仕事として期待されており、その卓越した遂行能力を評価し感謝するものは(映画の最後でのリプリーを除いて)一人もいない。ビショップが担っているのはまさに「不払い労働」であり、彼の労働が「不払い」であるのは、その生産物に交換価値がないからではなく、単に彼が「低い序列」に類別されているからにすぎない。つまり、ビショップは外見的には「男性」だが、その社会的役割は完全に「女性ジェンダー化」しているのである。それゆえ、その宿命にふさわしく、ビショップは女王エイリアンの男根状の剣尾で深々とさし貫かれて、引きちぎられることになる。フェミニストたちにとっての「理想」の家庭、それは非血縁的=同志的な母子関係に「不能の男たち」がからみつくようなかたちで構成されるだろうと『エイリアン2』の図像学は告げている。