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「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第9回) ☆ あさもりのりひこ No.474

臨床例が教えてくれるのは、ほとんどの性同一性障害者は、自分のセックスに違和を覚え、異性のジェンダーに親和するという事実である。

 

 

2017年10月1日の内田樹さんのテクスト「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第9回)を紹介する。

どおぞ。

 

 

 八〇代中盤からフェミニズムは再び変貌を遂げた。それは女性性を実体めかして語ったフェミニズム本質主義への鋭い批判として語り出されるのだが、それを準備したのは医学上の新たな知見であった。

 それまでのフェミニズムはジェンダーという文化的性差を痛烈に批判しながら、セックスという生物学的性差は価値中立的な事実としてそのままに受け容れてきた。しかし、内分泌学は、男女の性別というデジタルな性差は、実は性ホルモンの分泌量というアナログで連続的な変化の途中に恣意的に引かれた境界に他ならないという考え方を私たちに伝えた。同じように、解剖学は外性器についても二項対立的な性差は存在せず、誕生後に外性器が矮小化したり、肥大化したりすることはまれでないし、両方の性器が発達するandrogynousも存在することを教えている。いずれの水準でも、自然界に見られるのは、多様性と連続性だけであり、デジタルな性差なるものは科学的事実としては存在しない。セックス・ボーダーは人間の作り出した仮象にすぎなかったのである。

 では、なぜセックスはそれにもかかわらず、これまで「自然な」二項対立として観念されてきたのだろうか?

 性同一性障害という事例がその問いに答えの手がかりを与えてくれた。

 性同一性障害とは、自分の生物学的セックスとジェンダー・アイデンティティが一致しない症候のことである。仮に生物学的には「男性」であると認定された人が、ジェンダー・アイデンティティとしては「女性」を自認している場合、この違和感を解決するには二つの可能性がある。「あっちへ行く」か「こっちへ戻る」かである。さて、「彼」はどちらを選ぶだろう。セックスに適合すべく「男性として生きる」ことに努めるか、ジェンダーに適合すべく「女性として生きる」ことか?

 臨床例が教えてくれるのは、ほとんどの性同一性障害者は、自分のセックスに違和を覚え、異性のジェンダーに親和するという事実である。多くの性同一性障害者は、性器切除や造膣術など高額の出費と苦痛をともなう身体加工手術に耐えてまで、異性のジェンダーに自分をなじませる道を選んでいる。つまり、文化的な制度であるジェンダー・アイデンティティは生物学的セックスに優先するのである。

 私たちは『とりかへばや物語』から『ベルサイユのばら』まで、ジェンダー・アイデンティティのゆらぎにかかわる多くの物語を持っている。それらの物語が教えてくれることもまた、性同一性障害者の事例と一致する。それは、個人のレヴェルでは、どのジェンダーを選ぼうとも、いずれかのジェンダーを選んだものは必ずジェンダー構造の強化に奉仕するということである。

 性差の境界を超越する者は、「男」を選ぶときは、因習的な仕方で男性的となり、「女」を選ぶときは因習的な仕方で女性的となる。おのれを閉じ込めているジェンダーの壁を超えようとするものは、「壁の反対側」に安定的に帰属することを望んでいるのであって、壁の解体を望んでいるわけではない。ジェンダーに関する限り、「越境」によって壁は破壊されるのではなく、強化されるのである。

 かかる知見に準備された知的風土から出発して、フェミニズムの刷新を果たしたのがクリスティーヌ・デルフィである。ジェンダー・アイデンティティにおいて、ジェンダーがセックスより優位であるのは、セックスという概念それ自体がジェンダーによって事後的に作られた仮象だからであるという大胆な仮説をデルフィは立てたのである。

 「手短に要約するならば、私たちはジェンダー―女性と男性の相対的な社会的位置―がセックスという(明らかに)自然的なカテゴリーにもとづいて構築されているのではなく、むしろジェンダーが存在するがために、セックスが関連的事象となり、したがって、知覚対象のカテゴリーになったのだと考える。(…)私たちは抑圧がジェンダーをつくりだすと考える。つまり、論理的には、分業の階層的序列が技術的分業に先立って存在していて、この序列が技術的分業、すなわちジェンダーと呼ばれる性的役割をつくりだしたのだと考える。そして、人間の階層的な二分割が解剖学的差異を社会慣行に適合した区別に変化させるという意味において、今度はジェンダーが解剖学的セックスをつくりだしたのである。社会慣行が、しかも社会慣行のみが、一つの自然的事象を思考カテゴリーに変化させるのだ。」(6)

 デルフィによれば、社会の二極への分割は(そう信じられているのとは逆に)階層分化→分業→ジェンダーの差異化→セックスの差異化という順に進んでいる。生物学的性差は差別の「起源」ではなく、「階級」社会のイデオロギー的「産物」だったのである。

 一読しておわかりだろうが、フェミニズムにおける最新の知見は、意外なことに、私たちの世代にとってはきわめて「懐かしい」語法で綴られている。デルフィはフェミニズム本質主義のイデオロギー性を批判してこう書いている。

 「自然界との関係というものは存在しない(…)人間どうしの関係を事物どうしの関係あるいは事物との関係に見せかけるというのは、ブルジョワ・イデオロギーの明白な特徴である。」(7)

 『ドイツ・イデオロギー』にはこう書かれている。

 「諸個人が彼らの生活を表出する仕方は、すなわち彼らが存在する仕方である。したがって、彼らが何であるかは彼らの生産に、すなわち彼らが何を生産するか、ならびにいかに生産するかに合致する。」(8)

 この文章の「彼らが何であるか」を「彼らの(ジェンダーが)何であるか」と書き換えれば、マルクスの命題はそのままデルフィの命題に一致する。

 あるいは、「分業とともに、精神的活動と物質的活動が―享受と労働が、生産と消費が別々な個人の仕事になる可能性、いな現実性が与えられる。(…)それらが矛盾におちいらずにすむ可能性はただ分業がふたたびやめられることのうちにのみ存する」(9)という一節の中の「個人」を「ジェンダー」に書き換えても同様である。

 デルフィにおいて、フェミニズムはいわば一五○年かかってマルクスに回帰したのである。デルフィのマルクス主義的フェミニズムによれば、ジェンダーは階級社会に起因するものであり、それゆえジェンダーの廃絶は階級社会の廃絶と同時的に達成される。(レーニンを信じるなら、それは「ブルジョワジーの暴力装置である国家の廃絶」をも意味するだろう。)事実、デルフィはこう断言している。

 

「さしあたり言えるのは、家父長的生産・再生産システムが廃絶されないかぎり、女性は解放されないだろうということである。このシステムは(どんなふうに生じたにしろ)現に知られている社会すべての中核をなしているのだから、女性の解放のためには、現に知られている社会すべての基礎を完全にくつがえす必要がある。この転覆は革命なしには、すなわち、現在他の人間に握られている、私たち自身を支配する政治的権力を奪取することなしには実現できない。」(10)

 美しいほど明快だ。ここにはもう女性性や母性についての幻想はあとかたもない。性にかかわるすべてのイデオロギー的仮象は消え失せ、主人と奴隷の間の剥き出しの権力闘争という社会関係だけが残る。

 この政治的・唯物論的フェミニズムを通じて、アメリカ映画は「フェミニズムの顔をしたマルクス主義」のつきつける知的・倫理的な「検閲」に直面することになった。およそ知的であろうと望むフィルムメーカーはこの「検閲」をクリアーする映画を作らなければならない。

 

 さいわい唯物論的フェミニズムのひとつのトピックが製作者の投資意欲と監督の作家的想像力を刺激した。それは「デジタル・セックスのアナログ化」というSF的仮定である。ジェンダーが解体し、二極的セックスが無効になるとき、私たちの眼前にはおそらく人類がこれまでに見たこともないアモルファスでカオティックな「連続体としてのセックス」が展開するに違いない。『エイリアン3』と『エイリアン4』はこのSF的想定から生まれた。