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大学教育は生き延びられるのか?(第1回) ☆ あさもりのりひこ No.479

正直に言って、日本の大学は、このままではもう先はないです。

 

 

2017年11月3日の内田樹さんのテクスト「大学教育は生き延びられるのか?」(第1回)を紹介する。

どおぞ。

 

 

ご紹介いただきました、内田でございます。本日は、国立大学の教養教育の担当の人たちがお集まりになっていると伺いました。ずいぶんご苦労されてると思います。日々本当に胃が痛むような、苛立つような思いをしていらっしゃると思います。今回のご依頼をいただいたとき、かなり絶望的な話をしようと思ったんですけども、先ほどみんなを励ますようなことをお話しくださいと頼まれましたので、なんとか終わりの頃には少し希望が持てるような話にできればと思っています。

「大学教育は生き延びられるのか?」という問いの答えは「ノー」です。それは皆さん実感してると思います。大学教育は生き延びられるのか。生き延びられないです。今のままの状況では。

でも、仕方がないと言えば仕方がないのです。急激な人口減少局面にあり、経済成長の望みはまったくない。かつては学術的発信力でも、教育水準でも、日本の大学は東アジアの頂点にいました。でも今はもう中国やシンガポール、韓国にも台湾にも抜かれようとしている。急激に大学のレベルが下がっているのです。そして、急激に大学のレベルが国際的に低下していることについて、当の大学人たちにも教育行政の当局にもその自覚がない。これが危機の本質だと思います。

私は今もいくつかの大学で客員教授や理事をして、大学の現場とのかかわりを維持していますけれど、フルタイムの大学教員ではありません。ですから、好きなことを言わせてもらいいます。

正直に言って、日本の大学は、このままではもう先はないです。教育制度は惰性が強いですから、簡単には潰れはしません。民間企業のようにいきなり倒産するということはない。でも、じりじりと駄目になってゆく。長期停滞傾向が続いて、20年、30年経ったあたりで、もう本当に使い物にならなる。それでもまだ組織としてはもつでしょう。医療とか教育というのは「それがなくては共同体が存続しえない」本質的な制度ですから、最終的には現場にいる人たちが身体を張って守ります。ですから、どんなにシステムがおかしくなっても、公的な支援が途絶えても、それでもなんとか持続はします。でも、それはほんとうに現場の人が命を削ってもたせているからもっているのであって、公的制度としてはもう破綻している。ブラック企業と同じでです。フロントラインに立ってる生身の人間が必死になって現場を回しているわけで、その人たちがばたばた過労死しているおかげでかろうじてシステムの体をなしている。大学もそういう状況にいずれなりますし、局所的にはもうそうなっている。

医療の世界でかつて「立ち去り型サボタージュ」という言葉が使われました。小松秀樹さんの書かれた『医療崩壊』という本がその事実を明らかにしました。小松先生とは一度お会いしたことがありますけれど、その時に教えられたのは、「医療崩壊」というけれど、医療もやはり惰性の強いシステムなので、簡単には崩壊しないということでした。それは現場に立って医療の最前線を守っているドクターやナースは自分の健康や家庭生活を犠牲にしても医療を守ろうとするからです。そういう「業」を抱えた人が医療の現場に立っている。だから、制度的に破綻していても、簡単には崩壊しないんだ、と。でも、生身の人間ですから、彼らのオーバーアチーブメントに頼って支援の手当をせずに放置しておけば、いずれ一人倒れ二人倒れ、前線の維持が難しくなる。そういうお話でした。

10年ぐらい前に医療で起きたのと同じことが今、大学で起こっているような気がします。教育現場で働いてる人間を支援するという体制が国にも自治体にもメディアにも市民社会にもない。逆に、公的な制度やメディアが現場の教職員たちを追いつめている。精神的にも身体的にも「まだ働き方が足りない」と負荷をかけている。

それでもなんとか現場がもっているのは、教育に関わる人間もまた医療人と同じようにある種の「業」を抱えているからです。教員という職業を選ぶ人には一定の傾向性があります。医療を職業に選ぶ人たちと同じように、教員は学校という場が好きなんです。教室で若い人たちの前に立って何かを教えることが好きで、研究が好きで、アカデミアで異なる領域の知性と出会うことが好きで、という人が学校教育の場には引き寄せられてくる。だから、常軌を逸した負荷がかかっていても、なんとか踏みとどまろうとする。家庭生活や健康を犠牲にしても、自分の職域を守り抜こうとする。今の日本の大学がこれほど否定的環境にありながら、なんとか保っているのは、教育人たちのこの「業の深さ」のおかげです。

でも、生身の人間が蔵している生命資源は本来であれば他のことに使わなければいけないものです。一家団欒とか、文化活動とか。運動したり、遊んだり、自分の好きな研究をしたり、そういう本当にしたいことを断念して、その資源を学校の管理業務とか文科省の命じてくる意味のない作業に割かなければならない。

僕は選択定年制で大学を5年早く辞めたのですが、最大の理由は会議と書類書きが受忍限度を超えたからです。研究することも教育することも大好きなんですけれど、会議と書類書きが大嫌いでした。50代の途中からは6年間管理職でした。授業のない日に会議のためだけに登校するということが何度もありました。だから、あと5年いても、退職まで管理職が続くことがほぼ確実だったので、申し訳ないけれど60歳で退職しました。そういう意味では僕も「立ち去り型サボタージュ」の一人なんですよね。でも、これ以上いると、自分自身が干上がってしまうと思った。60歳になって、残りの人生のカウントダウンが始まったのに、まだやり残した仕事がたくさんある。研究の領域でもありましたし、武道家としてもやらなければならないことがたくさんありました。大学を守るためには現場に残って、僕も仲間たちと激務を分担しなければいけないということは理屈ではわかっていたのですが、会議と書類書きで自分の時間をこれ以上費やすことに耐えられなかったのです。その点では忸怩たる思いがあります。そうやって現場を棄てた人間の慚愧の思いを込めて、今日本の大学教育が一体どういうところにあるか、お話をしたいと思います。