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吉本隆明1967(後編) ☆ あさもりのりひこ No.492

多くの活動家学生たちが四年生になるとヘルメットを脱いで、汚れたジーンズを脱いでこぎれいなスーツに着替え、長い髪を切って七三に分けて就活を始めた。

 

 

2017年11月10日の内田樹さんのテクスト「吉本隆明1967」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

高校に入った時点では、私は大学を出て、法曹か新聞記者か文学研究者になるという「大衆からの離脱コース」のキャリアパスを望見していた。しかし、高校での受験秀才としての穏やかな生活は長くは続かなかった。一つには先に述べた「知的サークル」に潜り込んだせいで、そこでの知恵比べや「おどかしっこ」(「お前、あれ読んだ?」)に必死でキャッチアップする必要があったからである。だが、それ以上の手間暇を要したのは不良化活動(麻雀、飲酒、喫煙、ジャズ喫茶通い)であった。別にそんなところに貴重なリソースを投じる理由はなかったのだが、私は中学生までは「箱入りの優等生」だったので、その手の誘惑にまったく免疫がなかったのである。

濫読と不良化活動への邁進のせいで、私の学業成績はたちまち悲惨なことになり、「箱入り優等生」の私しか知らない家族や友人やガールフレンドたち周囲の「良きひとびと」を嘆かせた。彼らに背を向けて遠ざかってゆく私の姿に、彼らはあるいは「名状し難い寂しさや切なさ」を感じたかも知れない。でも、私自身はそれまで無縁であった「ウッドビー知識人」と「都会の不良少年」という別種の「良きひとびと」との出会いに興奮していた。

そこに吉本隆明が来た。衝撃だった。免疫のない子どもにこんな過激な思想を注入したらどういうことになるか。私は「子どもが吉本隆明を読むとどうなるか」という危険な実験の一症例だったのではないかと思う。

私は吉本を読んで、すぐに「高校をやめよう」と思った。それは歩き始めたばかりの「大衆から知識人への上昇過程」をいきなり逆走するというとんちんかんなアイディアであったが、こういう無謀なことは高校生しか思いつかない。もし私が中学生の時に吉本を読んだとしても、「中学をやめて働こう」とは思わなかっただろう(思ってもそれを実行するだけの社会的実力がない)。大学生になって読んだ場合には、大衆は「原像」として概念的に把持される他ないほどすでに遠い存在になっていただろう。だが、高校生は生活者大衆でもないし、知識人でもない。まだ何者でもない。それでも、親に内緒で退学届けを出したり、家を出て働くことくらいはできる。この特権的なポジションを利用して、大衆でも知識人でもない、その二つを架橋できる存在になろうと私は思った(ほんとうにそう思ったのである)。

でも、もちろんそんな野心的企てが成功するはずもなく、私は中卒労働者としてしばらく極貧生活を送った後、反社会的な生活態度に怒った大家さんにアパートを追い出されて、家出してわずか半年で親に叩頭して家に戻る許しを請うことになったのである。

中卒労働者はつらかった(何より空腹がつらかった)。だから、温かい部屋で、母親の作った夜食を食べながらの受験勉強など、それに比べたら極楽であるとしみじみ思った。なるほど、知識人への上昇というのは別に大衆からの離脱というような観念的な営みである以上に、「楽な暮らしをしたい」という自然過程なのだと私は17歳にして深く得心がいった。

だから、大検を通って大学に入った時、私はずいぶん態度の悪い学生だったと思う。左翼の学生たちの政治談議はまったく空疎なものに思えたし、受験勉強の反動でただ遊んでいる学生は幼児に見えた。「大学解体」を呼号し、学校教育は無意味だと冷笑的に言う学生たちには「なんで高校の時にはそれに気づかずに受験勉強してたんだよ」と憎まれ口をきいた。厭味な学生だったと思う。大衆と知識人を架橋する存在になるという17歳の野望は潰えたけれど、知識人トラックに自分の走路だけは確保しつつ、効率的に受験勉強をクリアーして進学してきた同輩たちに向かっては中卒労働者の空腹を経験したことがあるかとすごむという「鵺(ぬえ)」的な狡猾さだけは身に着けていた。吉本隆明を「悪用する」方法というのが他にもあるのかどうか知らないが、私は間違いなくその好個の適例だった。

けれども、一言言い訳をするが、本書でも重く扱われている「転向」の問題は私たちの世代にとっても決して他人事ではなかったのである。それは「ブル転」とか、もっと穏やかに「運動からの召還」と呼ばれていたけれど、平たく言えば、政治革命をめざす活動から撤退して、就活にとりかかることである。多くの活動家学生たちが四年生になるとヘルメットを脱いで、汚れたジーンズを脱いでこぎれいなスーツに着替え、長い髪を切って七三に分けて就活を始めた。私はこれには驚いた。私はたしかに厭味な「鵺」的学生ではあったけれど、「鵺」であることに殉じる覚悟はあった。まさか「日帝打倒」とシュプレヒコールしていた学生たちがその当の日帝企業の就職の面談に行って、「御社の将来性に期待して」というような空語を吐くようなことが実際にあるとは思ってもいなかった。

なるほど、彼らにとって知識人でありかつ大衆であるというのは「こういうこと」なのかと腑に落ちた。まったく吉本が言った通りではないか。彼らは一方では空疎で観念的な世界革命論を語り、その一方では「己のためなら他人のことなど構ってられるかという明治資本主義が育てた『本音』としての個人主義的リアリズム」(320頁)にも忠実であったのである。

「この種の上昇的インテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で目の前につきつけられたとき、何が起こるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである」という『転向論』の中の吉本隆明の言葉がこのときほど身にしみたことはなかった。

私はそのとき、ただ一人になっても「日本的情況」を見くびることだけはすまいと心に誓った。天皇制を、家族制度を、あるいは日本的政治思想を、宗教や伝統技芸を、それがどれほど「理に合わぬ」ものと見えても、私はそれを思考と、かなうなら実践の対象としようと決めた。空疎な政治革命論は語らない。けれども「己のためなら他人のことなど構ってられるか」というようなベタな個人主義リアリズムとも結託しない。その中ほどのところが、「鵺」的吉本主義者として私が選んだ立ち位置であった。

以後半世紀に近い歳月を閲した。私は後にフランスの哲学と文学を研究する学者になったが、その一方で父子家庭で子どもを育て、武道と能楽を稽古し、禊行を修し、祭祀儀礼を守り、今は自分の道場で地域の人々に合気道を教えて余生を過ごしている。他の点ではずいぶんわきの甘い男だったが、知識人と生活者大衆の中ほどのどっちつかずの立ち位置を守り、何があっても「日本的情況を見くびらない」という点については一度も警戒心を失ったことはない。その自負だけはある。それほどまでに『転向論』の吉本の言葉は私の胸に突き刺さったのである。

以上が私にとっての吉本隆明との出会いとその後のいきさつである。17歳で吉本隆明に出会って「よかったのか、よくなかったのか、よくわからない」というのは如上のような事情によるのである。

 

鹿島先生もおそらくは吉本隆明との出会いがきっかけになって知的成熟の道を歩み始めたはずである(そうでなければ、こんな本は書かなかっただろう)。鹿島先生が進まれた道と私が進んだ道が結果的にはずいぶん方向違いのものだったにせよ、私たちはどちらも(主観的には)同じ「母鳥」の後を追って歩いてきたのだと思う。