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日本。長髪とフォークの思想(前編) ☆ あさもりのりひこ No.495

沖縄で米軍駐留反対運動を戦う人たちや、1964年の東京五輪のための土木工事で破壊される前の東京の風景を懐かしむ人たちは、自分たちがサンフランシスコのヘイト・アシュベリーのヒッピー・コミューンとどこかで繋がっていると感じていた。

 

 

2017年11月24日の内田樹さんのテクスト「日本。長髪とフォークの思想」(前編)を紹介する。

どおぞ。

 

 

11月22日付けのLibération に日本の70年代ポップスについてのOlivier Lammという署名入りの長文の記事が掲載された。

はっぴいえんどの四人の写真が掲げられた記事を見てびっくりした。なんで「リベラシオン」にはっぴいえんどが出るんだと思って記事を読んだら、まことに興味深い内容だった。

You Tube のせいで今は世界中のあらゆる時代の楽曲を好きなだけ聴けるようになったわけだけれど、その過程でヨーロッパのユーチューバーたちは偶然日本の60~90年代のポップスを「発見」したのである。そして、そのクオリティの高さにびっくりした。

「日本ポップス、すげえ」と思ったプロデューサーが日本ポップスの網羅的なコンピレーションアルバムを作成する企画を出し、それが実現したという話である。

その経緯を知ったオリヴィエ・ラムさんという日本ポップス大好きなフランス人が「日本のポップスは1970年代初頭に同時代に世界のポップスのポールポジションを制していた(でも日本以外の人は誰もそれを知らなかった)」、そして、この時期まさに世界のポップ・ミュージックの先頭を走っていたのがはっぴいえんどだったという感動的な記事を書いてくれたのである。

泉下の大瀧詠一師匠が読んでくれたら、どれほど笑ってくださったであろう。

文中には「当時アルバム一枚の値段は労働者の平均月給と同額であった」とか「アングラの拠点は東北の秋田であった」とか「渋谷の高台にDIGという喫茶店があった」とかちょっと不正確な記述もあるが、それにしてもたいへんによく調べてあって、感涙。ではどうぞ。長いよ!

 

60年代の終わり、日本人の対米感情は良いものではなかった。1968年間にNHKが行った世論調査では「アメリカによい感情を抱いている」いう回答は31%にとどまった。東京から福岡まで、相当数の学生たちは1960年の安保条約延長をめぐる運動の中から生まれた新左翼に対して程度の差はあれ親近感を示しており、カウンター・カルチャーへの渇望が高まっていた。

沖縄で米軍駐留反対運動を戦う人たちや、1964年の東京五輪のための土木工事で破壊される前の東京の風景を懐かしむ人たちは、自分たちがサンフランシスコのヘイト・アシュベリーのヒッピー・コミューンとどこかで繋がっていると感じていた。東京の新宿駅のまわりにたむろしていた「フーテン族」たちの長髪の頭の中はユートピア的な共同体とルソー的な夢に満たされていた。彼らはその少し前まで銀座のブルジョワ的な街路をプレッピースタイルで闊歩していた「みゆき族」に代わって登場してきた。さまざまなアイディアが相克しながら創り出したこの腐葉土から「アングラ」が生まれた。そして、この日本版のアンダーグラウンド・フォークからその後の日本のポップソングの系譜のほとんどが生まれたのである。外国音楽の影響を否定せず、都会的洗練を求めながら、なお日本語で歌うことを選んだミュージシャンが登場したのはこの時のことである。

「木も涙を流す 日本のフォークとロック:19691973」(Even a tree can shed tears: Japanese Folk and Rock: 1969-1973)というタイトルはこのムーヴメントの先駆者西岡たかしの歌に由来する。このアンソロジーは日本のポピュラー音楽における決定的な出来事をはじめて欧米に紹介したものである。日本のエレクトロニックミュージック、ジャズ、ノイズなどのアヴァンギャルドに比べると、この時期の音楽活動は日本の外では知られることが少なかった。

1970年代初めの日本のカウンター・カルチャーの歴史に関心を寄せる人々は、例えば雑誌「Provoke」の日本特集や若松孝二の『連合赤軍』を通じて、その時代の日本の音楽には何かしら眩いものがあふれていたことに気づいたのである。それは歌詞の場合もあるし(いくつかは英訳されている)、楽曲の場合もある。その洗練度は同時期の英米の作物と比較してもいささかも見劣りがしないし、その不安定性は90年代のインディーズの爆発を告知していた。

1960年代末まで、日本のポップスは洋楽の模倣であった。大衆が好む音楽は「歌謡曲」と呼ばれ、そのより感傷的なタイプの楽曲が「演歌」である。これらの音楽は昭和時代(192689)を通じて、アフロ・キューバンのリズムやロックンロールと接触しても変化することがなかった。

その後、日本人は彼ら独特の「イェイェ」を創り出した。最初は60年代の「エレキ」ブームである。ブームのきっかけを作ったのはアメリカのサーフ・ミュージック・コンボ、ザ・ヴェンチャーズの日本ツァーであった。彼らの音楽がインストであったことも幸いした。その後、「グループ・サウンズ」の時代が続く。そして、ロックの「津波」を引き起こしたのは19666月のザ・ビートルズの東京の武道館公演である。

この時代のロックバンドは曲の多くを英語(のような言語)で歌った。この時期に、日本語で歌うミュージシャンは下位に格付けされたのである。

 

「木も涙を流す」に収録されているミュージシャンたちの多くは「グループ・サウンズ」の枠組みの中でデビューした。例えばクルーナーの布谷文夫はブルース・クリエーションで、細野晴臣はエイプリルフールで活動を開始した。その後、彼らはフォークに向けて音楽的進化を遂げてゆくわけだが、それは彼らがアイドルとしてきたアメリカのミュージシャンたちの音楽的進化に多くの点で影響をされていたからである。だが、1970年代に入り、日本のロックは文字通りそのようなアメリカの影響から解放された。この時期のアーティストたちによる創造的な活動が、加藤和彦や吉田拓郎のように日本の政治と教育のシステムに対する反抗者たちで満たされていた大学キャンパスで流行していた「プロテスト・フォーク」の純粋志向の延長上にあった場合も、あるいははっぴいえんどやはちみつぱいのようによりソフィスティケイトされた音楽的経験への野心に燃えていた場合も、どちらも母語を奪還することを目指していたのは偶然ではない。