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日本。長髪とフォークの思想(後編) ☆ あさもりのりひこ No.496

この時期に日本のポップスは同時代の世界の音楽ファンたちがその存在を知らないうちに世界のポップ・ミュージックのポールポジションを制したのである。

 

 

2017年11月24日の内田樹さんのテクスト「日本。長髪とフォークの思想」(後編)を紹介する。

どおぞ。

 

 

「英語で歌うか、日本語で歌うか、どちらかをめぐって、日本のロック界では激しい論争が繰り広げられた」とDavid Marx(日本のポップスの専門家で、“Ametora”―アメリカのモードの日本文化への影響についての参考文献―の著者)は書いている。

「内田裕也(歌手で、サイケデリックバンド、フラワー・トラベリング・バンドのリーダー)はあくまで英語で歌うことにこだわり、一方はっぴいえんどは日本語で歌うことにこだわった。その時代にも日本語で歌うグループは存在したが、彼らは『クール』ではないと見られていた。そして、英語か日本語か、どちらで歌うか迷っていたミュージシャンたちに方向を決めさせたのははっぴいえんどだった。」

はっぴいえんどは四人の日本ポップスの巨人たちによって始められた。ソングライターの大瀧詠一、ドラマーの松本隆、ギタリストの鈴木茂、飽くことを知らないイノベーターである細野晴臣(細野はその10年後にテクノ・ポップのトリオ、イエロー・マジック・オーケストラを結成することになる)。

はっぴえんどは疑いの余地なく日本のロックを成熟期に導いたグループであった。とはいえ、彼らが実際に活動していた時期(19691972)には人気のあるグループではなかった。その点でも、アウトサイダーでありながら、次世代に続く多くの扉を開いたヴェルヴェット・アンダーグラウンドに比較することが可能だろう。

David Marxはこう書いている。「はっぴいえんどのメンバーたちはさまざまなバンド、例えばバッファロー・スプリングフィールドの影響下に、欧米の音楽構造とメロディと日本的な感受性との独特のハイブリッドを創り出した。それは60年代のグループが欧米のポップスの様式を機械的に理解し、ほとんどの場合欧米の楽器を使って日本の歌を歌うことに行き着いたのとは対照的であった。」

はっぴいえんどは曲を作り、ライブ活動をし、プロデュースをするかたわら、さまざまなミュージシャンの熟練したバックバンドを務めた。岡林信康、荒井由実(日本のフランソワーズ・アルディ)、伝説の金延幸子(日本のジョニ・ミッチェル、残念ながら最初のアルバムを出した後にアメリカのジャーナリスト、Paul Williams と結婚して音楽の世界を去った)。その要求の高さによって、またその野心によって、とりわけ細野と大瀧によってそれと知られぬうちに行われた忍耐強い作業によって(この二人はやがて実に多様な領域で最も高く評価される作曲家となった)、はっぴいえんどは後に「ニュー・ミュージック」(Jポップの先祖。世界第二位のレコード市場の出現を決定づけた)と呼ばれることになるものの先陣を切ることになったのである。

1970年代始めの日本では、アルバム一枚の価格は労働者の平均給与の一ヶ月分に相当した。ましてや外国のアーティストのレコードを探し出すことは絶望的に困難であった。「よほど有名なアーティストでなければ公式のライセンスを得てレコードを出すことができなかった」とDavid Marxは書いている。「海外の楽曲にアクセスしようと思ったら、外国に行くしかなかった。はっぴいえんどはレコードを買い漁るつもりでロサンゼルスに赴いたのだと思う。」

当時、音楽を聴くのは「喫茶店」においてであった。喫茶店というのはヨーロッパのカフェに着想を得たコーヒーショップの原型で、最新のハイファイセットを装備しているところもあった。1930年代以降に流行した「ジャズ喫茶」「名曲喫茶」の伝統を受け継いだもので、若者たちは彼らの世界に登場してきた新しいものを発見するために喫茶店に足繁く通った。東京では、喫茶店は渋谷の高台に集中していた。DIGBYG、 ライオンなどという名前の店があった。地下室がある喫茶店はしばしばそこに仮設の舞台を造営していた。

東北地方の秋田や、関西の諸都市(大阪、京都、神戸)では、アングラはより政治化しており、岡林信康やフォーク・クルセイダーズ(加藤和彦が最初に属していたバンド)のようなアーティストはピート・シーガー、ジョーン・バエズ、あるいはボブ・ディランのプロテスト・フォークの流れを受け継いで活動していた。

日本で最初の独立レーベルURC(Underground Record Club)が創立されたのは大阪である。

率いたのはラディカルなジャックスのリーダーであった奇人早川義夫。このバンドは日本のロックに「マリアンヌ」という名曲を残して1968年に解散した。

「木も涙を流す」に収録されているアーティストの多くはURCあるいはその後続々と登場したレーベル(ベルウッド、エレック)と契約した。

それから40年経った今ヨーロッパでこれらの音楽を聴くことができるのは、この時のマイナーレーベルのもたらした開放的な空気のおかげである。メジャーが制作するレコードは日本レコード産業協会の定めるコードの制約下にあったからである。

この時期に日本のポップスは同時代の世界の音楽ファンたちがその存在を知らないうちに世界のポップ・ミュージックのポールポジションを制したのである。

日本のポップスの各時代毎のテーマ別アンソロジーのシリーズ企画が出て来たのは、数年前、Atticの中のLightレーベルにおいてであった。編集者の一人Yosuke Kitazawaによると、会社を説得したのはJeff the BrotherhoodJake Orrallである。

「最初のアイディアが出されたのは3年前で、Jakeが編集したカセットを受け取った。それを聴いて、コンピレーションアルバムとして日本の外で発表したいと思えるような曲がいくつもあった。これらの歌はかつて欧米で一度も発売されたことがなかった。」

アルバムを編集しているうちに他のアンソロジーも続けて出すことが決まった「シティポップ、AOR&ブギ 19751985」と「アンビエント、環境、ニューエイジ・ミュージック 19801990」である。その時代の特色を示すタイトルが付けられた。聴いてわかるのは、この続くアルバムに収録された音楽はきわめてひろい領域にわたっているが、相当数のアーティストは(細野晴臣を筆頭に)第1アルバムにすでに登場しているということだ。

「木も涙を流す」はそれらのアルバム群の序章という役割を果たすことになる。

名曲を集めたコレクションだが、1960年代から90年代にかけて日本のポップスが海外のリスナーの関心をまったく惹きつけていなかった時期の日本のポップスの黄金時代に照準を合わせている。まずは第一アルバムを聴いて、それからその後の日本ポップスの展開をたどるというのが適切な聴き方だろう。

このようなアルバム編纂事業がこの時期に、つまり2000年以後、聴きたいと思えば世界中のどんな種類の音楽も、それを理解したり、鑑賞したりするためのガイドなしでいくらでも聴ける時代になって出てきたということはある意味では逆説的である。

 

実際には、日本の音楽は、あまり事情に通じていない音楽ファンのブログを通じて、バイアスのかかったかたちで紹介され、流通してきた。残念ながら、音楽に関わる日本語の文献はほとんどフランス語には翻訳されていない。あと10年くらいすれば、われわれももう少しまともなカタログを整備できるだろう。とりあえずは、フランスの音楽ファンたちが手探りで情報をやりとりしている謎に満ちたYouTubeの迷宮の背後に、日本のポピュラーミュージックの王国が、その王たち、道化師たち、一匹狼たちが豊かな財宝と共に存在していることを言祝ごうではないか。