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言葉の生成について(第2回) ☆ あさもりのりひこ No.523

読解力というのは量的なものではありません。僕が考える読解力というのは、自分の知的な枠組みを、自分自身で壊して乗り越えていくという、ごくごく個人的で孤独な営みであって、他人と比較したり、物差しをあてがって数値的に査定するようなものではない。読解力とは、いわば生きる力そのもののことですから。

 

 

2018年3月28日の内田樹さんの論考「言葉の生成について」(第2回)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

今の日本社会は、自分自身の知的な枠組みをどうやって乗り越えていくのか、という実践的課題の重要性に対する意識があまりに低い。低いどころか、そういう言葉づかいで教育を論ずる人そのものがほとんどいない。むしろ、どうやって子どもたちを閉じ込めている知的な枠組みを強化するか、どうやって子どもたちを入れている「檻」を強化するかということばかり論じている。

しかし、考えればわかるはずですが、子どもたちを閉じ込めている枠組みを強化して行けば、子どもたちは幼児段階から脱却することができない。成長できなくなる。でも、現代日本人はまさにそのようなものになりつつある。けっこうな年になっても、幼児的な段階に居着いたままで、子どもの頃と知的なフレームワークが変わらない。もちろん、知識は増えます。でも、それは水平方向に広がるように、量的に増大しているだけで、深く掘り下げていくという垂直方向のベクトルがない。

読解力というのは量的なものではありません。僕が考える読解力というのは、自分の知的な枠組みを、自分自身で壊して乗り越えていくという、ごくごく個人的で孤独な営みであって、他人と比較したり、物差しをあてがって数値的に査定するようなものではない。読解力とは、いわば生きる力そのもののことですから。

現実で直面するさまざまな事象について、それがどういうコンテクストの中で生起しているのか、どういうパターンを描いているのか、どういう法則性に則っているのか、それを見出す力は、生きる知恵そのものです。何が悲しくて、生きる知恵を数値的に査定したり、他人と比較しなくてはならないのか。そういう比較できないし、比較すべきではないものを数値的に査定するためには、「読解力とはこういうテストで数値的に考量できる」というシンプルな定義を無理やり押し付けるしかない。けれども、ある種のドリルやテストを課せば読解力が向上するという発想そのものが子どもたちの「世界を読み解く力」を損なっている。

僕がそのように思うに至ったのには、レヴィナスを翻訳した経験が深く与っています。レヴィナスは「邪悪なほど難解」という形容があるほど難解な文章を書く哲学者です。

僕は1970年代の終わり頃、修士論文を書いている時にレヴィナスの名を知り、参考文献として何冊かを取り寄せ、最初に『困難な自由』という、ユダヤ教についてのエッセイ集を読みました。しかし、これが全く理解できない。そして、茫然自失してしまった。にもかかわらず、自分はこれを理解できるような人間にならなければということについては深い確信を覚えました。ただ知識を量的に増大させて太刀打ちできるようなものではない、ということはよくわかりました。人間そのものの枠組みを作り替えないと理解できない。それまでも難しい本はたくさん読んできましたが、その難しさは知識の不足がもたらしたもので、別に自分自身が変わらなくても、勉強さえすれば、いずれ分かるという種類の難解さに思われました。でも、レヴィナスの難解さは、あきらかにそれとは質の違うものでした。今のままの自分では一生かかっても理解できないだろうということがはっきりわかる、そういう難解さでした。その時は「成熟する」という言い回しは浮かびませんでしたが、とにかく自分が変わらなければ始まらないことは実感した。

いきなり道で外国人に両肩を掴まれて、話しかけられたような感じでした。「とにかくオレの話を聞け!」と言ってるらしいけれど、何を言っているかは全然わからない。どうやら僕が緊急に理解しなきゃいけないことを話しているらしい。でも、何を言っているのか分からない。とにかく、先方が僕に用事がある以上、僕がそれを理解できるように変わるしかない。そう実感したんです。

仕方がないので、それから翻訳を始めました。意味が分からないままフランス語を日本語にするわけですから、ほとんど「写経」です()

一応文法的に正しい日本語にはしますが、直訳した日本語の訳文を読んでも、やはり意味がわからない。出版社に翻訳を約束したので、一応二年ほどかけて訳し終えたんですが、訳者に理解できないものが読者に分かるはずがないと思って、ちょっとこれはお出しできないなと思って、そっと押し入れにしまった(笑)。

そのまましばらくはレヴィナスのことを忘れて、他のことに集中しました。その間にいろいろなことがあり、病気になったり、家族と諍いがあったり、就職したり、育児をしたり、武道の稽古に励んだり、いろいろありました。そしてある日、久しぶりに出版社の担当編集者から連絡があって、翻訳はどうなったと聞いてきました。そこでしかたなく押し入れから原稿を取り出して読んでみた。そしたら、ちょっと分かるんですよ。驚きました。別にその年月の間に僕の哲学史的知識が増えたわけではない。でも、少しばかり人生の辛酸を経験した。愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、恨んだり、恨まれたり、裏切ったり、裏切られたり、ということを年数分だけは経験した。その分だけ大人になった。だから少しだけ分かる箇所が増えた。例えば、親しい人を死者として送るという経験をすると、「霊的なレベルが存在する」ということが、皮膚感覚として分かるようになります。祈りというものが絶望的な状況に耐える力をもたらすということもわかる。共同体を統合するためにはある種の「強い物語」が必要だということもわかる。そういうことが40歳近くなってくると、少しずつ分かるようになってきたら、レヴィナスが書いていることも少しずつ分かってきた。

レヴィナスが難解だったのは、語学力や知識の問題というよりは、自分が幼くて、レヴィナスのような「大人」の言うことがわからなかったからだということがわかった。