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言葉の生成について(第4回) ☆ あさもりのりひこ No.525

そういう時に役に立つのは「なんだかよくわからない話」です。自分にうまく理解できない話。そういう話の中に「これはあれかな」の答えが見つかることがある。当然ですよね、自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。

 

 

2018年3月28日の内田樹さんの論考「言葉の生成について」(第4回)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

レヴィナスを毎日翻訳するという生活が10年近く続いたわけですけれど、これだけ「わからない言葉」に身をさらすということをしていると、まだぴったりした言葉に出会っていない思念や感情は、いわば「身に合う服」がないまま、裸でうろうろしているような感じなんです。だから、何を見ても「あ、これなら着られるかな、似合うかな」と思う。四六時中そればかり考えている。新聞を読んでも、小説を読んでも、漫画を読んでも、友だちと話していても、いつも「まだ服を着ていない思い」が着ることのできる言葉を探している。そのことがずっと頭の中にある。そうすると、喉に刺さった魚の骨みたいなもので、気になって気になって、朝から晩まで、そのことばかり考えている。でも、魚の骨と同じで、そのことばかり考えているうちに、それに慣れて、意識的にはもう考えなくなってしまう。そして、ある日気がつくと、喉の痛みがなくなっている。喉に刺さっていた小骨が唾液で溶けてしまったんです。「痛い痛い」と言いながら、身体はずっと気長に唾液を分泌し続けていた。そして、ある日「喉に刺さった小骨」は溶けて、カルシウムになって、僕の身体に吸収され、僕の一部分になってしまっていた。

新しい記号の獲得というのは、そういうふうにして行われるものだと思います。「記号化されることを求めているアイデアの破片」のようなものが、いつも頭の中に散らばっている。デスクトップ一杯に散らかっている。だから、何を見ても「これはあれかな」と考える。音楽を聴いても、映画を見ても、本を読んでいても、いつも考えている。

そういう時に役に立つのは「なんだかよくわからない話」です。自分にうまく理解できない話。そういう話の中に「これはあれかな」の答えが見つかることがある。当然ですよね、自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。自分がふだん使い慣れている記号体系の中にはぴったりくる言葉がないわけですから、「よそ」から持ってくるしかない。自分がそれまで使ったことのない言葉、よく意味がわからないし、使い方もわからない言葉を見て、「あ、これだ!」と思う。そういうことが実際によくあります。歴史の本とか、宗教書とか、武道や芸能の伝書とか、今やっている哲学の論件と全然関係のなさそうな書物の中にぴったりの比喩や、ぴったりの単語があったりする。

これは本当によい修業だったと思います。そういう明けても暮れても「言葉を探す」という作業を10年20年とやってきた結果、「思いと言葉がうまくセットにならない状態」、アモルファスな「星雲状態」のものがなかなか記号として像を結ばないという状態が僕にはあまり不快ではなくなった。むしろそういう状態の方がデフォルトになった。

そうなると、とにかく大量に「出力」するようになります。仕方ないです。「記号として受肉することを求めているもの」、「早く言葉にして言い切ってくれ」と懇願するようなものが、身体の中、頭の中で、明けても暮れてもじたばたしているわけですから。とにかく下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる式にどんどん出力してゆく。書いても書いても「これでは言葉が足りない」と思うから、さらに出力する。

自分でも時々、本棚を見て、何やってるんだろうと驚くんです。自分の本だけ置いてある棚があるんですけれど、もう100冊以上ある。10年と少しで、それだけ書いた。自分でも何を出したか覚えていない位なんです。だから、「ゴーストライターがいるの」とよく聞かれます()

ゴーストライターはもちろんいません。僕の中には「言葉になりたい」とじたばたしているアイデアがつねにある。だから、ずっと「中腰」でいる。言いたいことを言い切ってすっきりしたという状態は、絶対に来ないんです。何を書いても、言い足りない、あるいは、言い過ぎる。言い足りないところを言い足し、言いすぎたところを刈り込んでゆくと、いつまでもエンドレスで書かざるを得ないわけです。

 

自分の理解を超えるもの、自分にとって未知なものを、自分の手持ちの語彙の中に落とし込むということがどうしてもできない。そんなことしても、少しも楽しくない。だって、それが「自分の理解を超えるもの」「自分にとって未知のもの」だということを僕は知っているわけですから。人は騙せても、自分は騙せない。わからないことについて、わかったふりなんかしても、少しも楽しくない。それよりは、自分の語彙を増やし、自分のレトリックを練り上げ、自分のロジックをバージョンアップする方がいい。どうしても実感できない概念を、想像力の限りをつくしてなんとか追体験しようとする。そういう訓練を、翻訳を通じてずっとしてきました。僕がその後物書きとして大量に出力するようになったのは「何を言っているかわからないテクストをわかるためには自分が変わるしかない」という気づきが深く与っていると思います。