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言葉の生成について(第10回) ☆ あさもりのりひこ No.533

さっさと言いたいことを言え、400字以内で過不足なく述べよ、というような圧力によって言語能力が育つということはないんです。

 

 

2018年3月28日の内田樹さんの論考「言葉の生成について(第10回)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

首尾一貫した、整合的なセンテンスを語らなければならないというルールがいつから採用されたんでしょう。だって、言葉の生成というのはそういうものじゃないでしょう。言葉がなかなか着地できないまま、ふらふらと空中を漂って、「なんて言えばいいんだろう、もっと適当な表現はないかなあ」と、つっかえたり、言いよどんだり、前言撤回したり、そういう言語活動こそが「ヴォイス」を獲得するために必須の行程なんです。そういう言葉がうねうねと渦を巻くようなプロセスを「生成的なもの」だと見なして、大人たちが忍耐強く、興味深くそれを支援するということが言語能力の成熟のためには絶対に必要なんです。さっさと言いたいことを言え、400字以内で過不足なく述べよ、というような圧力によって言語能力が育つということはないんです。うまく言えない子どもに対しては「うまく言えないというのは、いいことなんだよ」と励ましてあげなくちゃいけない。

基本的に僕は学生たちが必死で紡ぎ出した言葉について全部「いいね!」です。僕が嫌いなのは定型です。できあいのテンプレートをなぞったような文章については、はっきり「つまらん!」と言います。大学生に文章を書かせると、本当に悲惨なものなんです。「定型的で整合的なことを書く」というより以前のレベルです。昔なら小学生の作文みたいなものを平然とレポートとして出してきますから。「朝起きて、顔洗って、ご飯を食べて…」それがエッセイだと言うんです。

困るのは、とにかく平然と「先生の授業は難しくてわかりませんでした」と書いてくること。「難しくてわからなかった」というのが批評的なコメントだと思っている。だから、わからないくせにえらそうなんです(笑)。たぶん学生たちは食堂へ行って、厨房のおばさんに「ちょっとこのうどん固かったわよ」とクレームつけているようなつもりなんでしょう()。あの言い草はそうですね。授業がわからないのは、先生の責任だと思っている。もっと分かりやすく話して下さい、私たちにもわかるように噛み砕いて話してください。そういうことを要求する権利があると思っている。骨の髄まで消費者マインドがしみついている。

学校教育が、消費者である子どもたちに対して、教育商品を差し出して「買って頂く」という発想でやっていたら、そうなるのは当たり前です。だから、「私にもわかるようなやさしい授業をしろ」ということを平気で言う。それが学校教育に対する建設的な批評として成立していると思い込んでいる。

言葉が生成するとはどういうことか、という話に戻ります。『徒然草』を訳して発見したことがあります。それは古典の授業で読まされる古文の現代語訳って、つまらないということです(笑)。ほとんど音読に耐えない。でも、原文はグルーブ感のある、ノリのよい文章なんです。だから僕は、中身はどうでもいいから、吉田兼好の「ヴォイス」を現代語にできたらと、思って訳しました。

その時にいくつかルールを決めました。一つは、「分からない単語は分からないままで放っておく」ということです。だって、700年前に書かれたものですからね。しかも兼好は有職故実に異常に詳しくて、当時の公家や僧侶たちでさえよく知らない宮中のしきたりとか、制度文物の由来とか知っていることが自慢だった人なんですから。兼好と同時代人でさえわからなかった話を700年後の現代人が分かるわけがない。江戸時代にも『徒然草』の注釈書はいくつも出ていますけれど、そこにだって「この言葉の語義は不詳」というものがいくらもある。江戸時代の専門家がわからなかったことが現代の一般読者にわかるはずがない。だから、そういうのは「意味不明の言葉」のまま残しました。

そもそも、文学とはそういうものですよね。小説の登場人物が経験してることのほとんどは、僕らは経験したことがないわけです。宇宙空間を光速で飛行したこともないし、戦国時代に槍を振り回したこともない。でも、小説の登場人物が、それをリアルに経験している「感じ」があれば、読む側は何の問題もない。自分の現実経験の中にそれに対応するものがないから「わからない」と文句をつける読者はいません。文学作品というのはほとんど全篇「自分がよく知らないこと、経験したことがないこと」に埋め尽くされている。それでも何の不自由もなく、僕たちは小説を楽しんでいる。

古典だってそれでいいはずです。だから注をつけませんでした。注を付けると、注を読んでしまうから。SFで宇宙空間を飛ぶ話とか、エイリアンが出てくる話とか読んでいるときに、そこに見たことも聞いたこともない科学用語がでてきても、注なんか探さないでしょう。どんどん話を先に進みたいから。注なんか読まされて読書を中断したくないから。古典だってそれと同じです。どんどん読めばいいんです。知らない単語とかあっても、気にしない。現代文だってそうやって注抜きで読んでいるのに、どうして古典にだけ細かく注が要るのか。というわけで注は、最初はつけていたんですけれど、途中で全部取っ払ってしまいました。

 

もう一つは、古典の訳としてはルール違反でしょうけど…、原文のままというのが、いっぱいあるんです()。「何事にも先達はあらまほしきものなり」とか「命長ければ辱(はじ)多し」とかすでに広く人口に膾炙(かいしゃ)して、現代人でも知っている言い回しですから、それはもう現代語だろう、と()。他の現代語訳ではたぶん誰もやったことがないと思いますけど。