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言葉の生成について(第13回) ☆ あさもりのりひこ No.537

古典や漢文などは一体なんの意味があるんだ、そんなものになんの有用性もないというようなことを言う人たちがいる。でも、母語のうちにこそ文化的な生産力の源はあるんです。二千年前から、この言葉を使ってきたすべての人たちと、文化的に僕たちは「地続き」なんです。

 

 

2018年3月28日の内田樹さんの論考「言葉の生成について(第13回)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

東アジアを見回すと、中学、高校で基礎的な訓練を受けたら、あとは辞書一冊あれば、自力で古典のアーカイブに自力で入っていけるという教育機会を享受できているのは日本人の子どもだけです。そのことを、子どもはもちろん、たぶん国語の教員たちもそれほど自覚的ではないように思います。古文や漢文なんか、何の役にも立たないんだから、やることはない。それより英語をやれ、というようなことを言い立てる人間たちがいくらもいますが、国語の先生たちがそれに対して効果的な反論をされているようには思えません。でも、これはきっぱり退けなければいけない暴論です。

先日、宮崎滔天の本を読みましたけれど、滔天の活動は今からは信じられないくらいにグローバルです。アジアの各地に飛んで、そこで現地の人たちと知り合って、その国の革命運動に直接コミットしている。明治時代の大アジア主義者たちはみなそうです。北一輝も、内田良平も、各国の革命闘争に直にコミットしていた。それができたのは、東アジアの知識人たちは漢文という「リンガフランカ」を共有していたからです。彼らのコミュニケーションは基本、筆談なんです。かなり複雑で、高度な内容の対話でも、とりあえず矢立から筆を取り出して、懐紙にさらさらとしたためれば、それで今でなら「メール」とか「ライン」とかでの通信に類するコミュニケーションができた。明治の日本人たちは子どもの頃から、『四書五経』やら『史記』やら『唐詩選』やらを叩き込まれていたわけですから、教養の幅においても深さにおいても中国朝鮮の知識人と変わりがなかった。同じ語彙、同じ修辞法を共有していたわけです。

東アジアにおける文化的な一体感の喪失は主に政治史的な理由だけから説明されますけれど、東アジア各国の人々が、漢文というリンガフランカを失ったことが相互理解の深まりを妨げたということは理由の一つだったと思います。かつては漢文を書くことによって、相当にデリケートな意思疎通もできていたのに、その共通のコミュニケーション・プラットフォームがなくなってしまった。そのことのもたらしたネガティヴな影響について、もう少し深刻に受け止めた方がいいと思います。

韓国の先生に伺ったところでは、今韓国の大学で一番人気のない学科は、韓国文学科と韓国語学科と韓国史学科だそうです。みんなもっと実学的な専門を修めて、アメリカに留学して学位を取ろうとする。そういう人たちが韓国のこれからのリーダーになる。でも、自国の言語にも文学にも歴史にも、特段の関心がないという人たちに韓国のこれからの国のかたちを決めさせるというのはおかしいんじゃないか。韓国人の僕の友人はそう言っていました。僕もその通りだろうとおもいます。

日本でも、文系の学問に対する風当たりは強いです。古典や漢文などは一体なんの意味があるんだ、そんなものになんの有用性もないというようなことを言う人たちがいる。でも、母語のうちにこそ文化的な生産力の源はあるんです。二千年前から、この言葉を使ってきたすべての人たちと、文化的に僕たちは「地続き」なんです。そして、日本の場合は、ありがたいことに、言語を政治的な理由で大きくいじらなかったので、700年前の人が書いた文章を辞書一冊あれば、誰でもすらすらと読むことができる。中学高校で、そういうことができるような基礎的な教育を受けているから。それはどれほど例外的で、どれほど特権的な言語状況であるのか、日本人は知らな過ぎると僕は思います。

グローバリストたちは、もう古文や漢文なんかいいから、英語をやれと言います。でも、それは自国語で書かれた古典のアーカイブへのアクセスの機会を失うということを意味しています。母語のアーカイブこそはイノベーションの宝庫なんです。人間は母語でしか、イノベーションできないからです。僕たちは全く新しい概念や感情を母語でしか創り出すことができません。「新語(neologism)」というものが作れるのは母語においてだけなんです。

何年か前、野沢温泉の露天風呂に入っていた時に、あとから大学生らしき二人の若者が入ってきました。そして、湯船に浸かった瞬間に「やべー!」と叫んだ。その時に、僕は「ああ、日本語の『やばい』という形容詞は『たいへん快適である』という新しい語義を獲得したのだな」ということを、その場で理解しました(笑)。

でも、これこそが母語の強みなんです。新語を作ることができる。それは日本語話者たちなら誰でもその新しい意味を即座に理解できるからなんです。そんなことは母語でしかできません。

「真逆」というのもそうでした。ある日その語をはじめて耳にした。でもすぐに意味が分かりました。漢字も頭に浮かんだ。そして、「真逆」の方が「正反対」よりもインパクトがあるなと感じた。こんなことは母語でしか起きません。外国語ではできない。僕が英語のある形容詞に「新しい意味」を付与しようと思って、使ってみせても、誰も理解してくれない。変な顔をされるだけです。僕の作った新語が英語の辞書に載ることもない。でも、「やばい」も「真逆」も、もう国語辞典の新しい版には「若者言葉」として採録されています。日本語として認知されたのです。

知的なイノベーションが母語の中でしか行われないと言っては言い過ぎかもしれません。でも、いまだ記号として輪郭が定かでない星雲状態のアイデアが「受肉」するのは母語においてであるというのは経験的に確かです。喉元まで出かかっている「感じ」が言葉になるのは圧倒的に母語においてです。

言葉の生成は、文明史的なスケールの出来事です。でも、現代日本社会は、言葉が生成してゆくダイナミックなプロセスについての関心を持つ人がほんとうにいない。古典なんてどうでもいい、言葉なんてシンプルなストックフレーズを使い回せばいいと思っている人間が、日本の場合、政官財メディアの指導層のほとんどを占めている。だから、生きた言葉を使える人がほとんどいなくなってしまったという、痛ましい現実がある。

皆さん方の仕事は、とにかく「子どもたちを生きた日本語の使い手にしていく」ということです。彼らが「ヴォイス」を発見することを支援していく。「ヴォイス」の発見というのは一生かかる仕事であって、国語の先生が関われるのは人生の一時期だけです。だから、それは「教育する」というよりはむしろ「支援する」というポジションだと思います。

そして、「ヴォイスの発見」は、査定したり、点数をつけたり、他人と比較して優劣を論じたりするような営みではありません。そんなことをすれば、むしろ深く傷つけられてしまう。これは、今の学校教育システムが成績査定と縁を切らない限りはどうしようもないのですが。でも、成績をつけることはとりあえず国語教育にとっては有害無益なことだと僕は思っています。仕方ないとはおもいますが、国語についてだけは、本当は成績をつけてほしくない。どうして子どもたちの知性や、想像力や、自分自身の限界を超えようという自己超越の努力に点数をつける必要があるんですか。そんなものは点数化して語るべきことではないんです。彼ら一人一人の問題なんですから。

でも、仕方ないですよね、仕方ないですけども、そんなことをうるさく言っている男がいるということだけを記憶して頂いければと思います。

長時間ご静聴ありがとうございました。

(2016年129日 大阪府高等学校国語研究会にて)