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死刑について(後編) ☆ あさもりのりひこ No.564

死刑の存否についても、今回の死刑の妥当性についても、国民的な合意はない。

けれども、国民的合意を求める努力は必要だ。

 

 

2018年7月8日の内田樹さんの論考「死刑について(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『異邦人』をガリマール書店から刊行したとき、カミュ自身はレジスタンスの地下活動にコミットしていた。それはゲシュタポに逮捕されれば高い確率で死刑に処せられる活動だった。

法廷記者としては「捕まって死刑にされる人たち」の横から死刑を考察していたカミュは、このとき「捕まれば死刑にされる人」として、それと同時に「ドイツ兵を殺すことを本務の一部とするレジスタンスの活動家」として死刑とテロルについて考察していた。

その時、カミュが定式化した原則は「自分が殺されることを覚悟している人間は人を殺すことができる」というものだった。

レジスタンスのテロ活動はドイツ兵たちを殺していた。

政治的理由でそれを合理化することはできる。けれども、レジスタンスの闘士たちは軍服を着てそうしていたわけではない。私服で、市民生活のかたわらにサボタージュを行い、ドイツ兵を殺していたのである。

その行動を合理化するためには、政治的理由のほかに、個人的な、倫理的な理由づけがどうしても必要だった。

それが「殺される覚悟があれば、殺すことができる」という「トレードオフの倫理」「相称性の倫理」だったのである。

いわばこういうことだ。

私は自分の命をあらかじめ公的な境位に「供託」しておく。「あなた」が私を捕らえたら、「あなた」には私の命を奪う倫理的権利がある。それを認めた上で、私はあなたを殺す倫理的権利を手元にとどめておく。

そういうロジックである。

その「相称性の倫理」をカミュはレジスタンスの活動の中で書き綴った『ドイツの一友人への手紙』を通じて基礎づけようとしていた。

その時点でカミュはいくぶんか「すっきり」していた。

しかし、「解放後」はそうはゆかなくなった。

レジスタンスの勝利のあと、今度は「対独協力者」たちの処刑が始まったからである。

カミュは最初は彼らの死刑に賛成した。まさに彼らとの戦いの中で多くの仲間が殺されたのである。死者たちの無念を思えば、「私には彼らを赦す権利がない」とカミュが書くのも当然である。

しかし、対独協力派の旗頭であったロベール・ブラジャッックの死刑について助命嘆願を求められたカミュは寝苦しい一夜を過ごしたあと、嘆願書に署名することになる。

その理由についてカミュが書いていることはわかりやすい話ではない。

それはおそらくカミュがその「寝苦しい一夜」の間に「死刑を待つブラジャックの側」に立って、想像力を用いてしまったからだろうと私は思う。

かつて法廷記者として死刑囚の思いを想像した時のように、レジスタンスの活動家として自分自身の銃殺の場面を想像した時のように、このときは「殺されるブラジャック」の思いを想像してしまったのである。

ナチス占領下のパリでは、ブラジャックはカミュたちを捕え、殺す側にいた。「解放後」のパリではカミュには「ブラジャックに殺される」可能性はゼロである。

相称性の倫理はここでは働かない。

カミュは「私は原理的な非暴力主義者ではない」と書いている。

「ある場合には暴力は必要だし、私は必要な場合に暴力をふるうことをためらわない。」

しかし、カミュはブラジャックの助命嘆願書に署名した。

権利上ブラジャックがカミュを殺すことが「できる」なら、カミュはそれに暴力をもって立ち向かうことを辞さない。けれども、無抵抗の「罪人」を殺すことには「ためらい」がある。

カミュはその「ためらい」を最後の足がかりにして、死刑に反対したのである。

論理的な根拠があったわけではない。「そういう気分にならない」から反対したのである。

私はこのカミュの判断を「人間的」なものだと思う。

私たちは生きている限り、さまざまな非道や邪悪さに出会う。時には信じられないほどの残酷さや無慈悲に出会う。それに相応の処罰が与えられるべきだと思うのは人性の自然である。

けれども、その非道なものたちが捕えられ、死刑を宣告された時には、そこに一抹の「ためらい」はあって然るべきだろうと思う。

人が正義を求めるのは、正義が行われた方が「人間社会が住み良いものになる」と信じるからである。

ことの適否の判断はつねに「それによって人間社会がより住みやすいものになるかどうか」によってなされるべきだと私は思っている。

オウム真理教の死刑囚たちは非道で邪悪な行いをした。そのことに議論の余地はない。

けれども、彼らの死刑執行にはつよい違和感を覚える。「それで、ほんとうによかったのか」という黒々とした疑念を拭うことができない。

「制度がある限り、ルールに沿って制度は粛々と運用されるべき」だという形式的な議論に私は説得されない。それは「そもそもどうしてこの制度があるのか」という根源的な問いのために知的リソースを割く気のない人間の言い訳に過ぎないからだ。

そんな言い訳からは何一つ「よきもの」は生まれない。

世の中には効率よりも原則よりも、ずっと大切なものがある。

死刑の存否についても、今回の死刑の妥当性についても、国民的な合意はない。

けれども、国民的合意を求める努力は必要だ。

努力すれば国民的合意がいつか形成されると期待するほど私はナイーブな人間ではない。

そうではなくて、「国民的合意がなくては済まされない」という切実な願いだけが、国民国家という冷たい制度に、政治的擬制に「人間的な手触り」を吹き込むからだ。

 

そこでしか人間は生きられない。そこからしか人間的なものは生まれない。