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『知日』明治維新特集のアンケートへの回答(後編) ☆ あさもりのりひこ No.573

後世にすぐれた物語の書き手を得た歴史的人物は末長く記憶される。

 

 

2018年8月11日の内田樹さんの論考「『知日』明治維新特集のアンケートへの回答(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

4.安政の大獄に対する意見をお聞かせください。なぜ数多くの維新志士を育てた吉田松陰が殺されましたか?

 

安政の大獄は幕末の徳川幕府の機能不全を象徴する事件だと思います。

国難的事態に遭遇した時には、「どのようにして国論を統一するか」が緊急の課題ですけれど、井伊直弼はそれを「反対派を殲滅する」恐怖政治として実行しようとしました。「衆知を集めて議論して、国論の統一をはかる」という選択肢も理論的にはありえたはずですが、それができなかった。幕府内部で、問題点を明らかにし、基本的な情報を共有し、取りうるさまざまな選択肢を吟味し、その中で最も利益が多く、損害の少なそうな解を選び取るという合理的な政策決定プロセスが機能していなかったからです。

もちろん、それが幕府の後進性ということの実相であるわけですけれども、「急いでことを決めない」ということが久しく日本社会では合理的な意思決定プロセスとみなされていたということでもあります。

たしかに、議論をだらだら引き伸ばして、何も決めないでいるうちに、想定外のことが起きて、「こうなったら、もうこれしかない」という解に全会一致で雪崩れ込んでゆく・・・というのが、一番「角の立たない」合意形成ではあるわけです。それでうまくゆくこともあります。けれども、この意思決定プロセスの弱点は限られた時間内には意思決定をすることができないということです。手をつかねて合意形成の機が熟すのを待つというやり方は黒船来航とか、外交条約締結とかいう「待ったなし」という局面には対応できない。現に、そういう局面に遭遇した時も、幕閣たちはその伝統的な「だらだら引き延ばす」戦術を採用したのですが、欧米にはその手が通じなかった。

 

「だらだらしているうちに、落ち着くところに落ち着く」という意思決定ができない場合は「合意形成を待たず、誰かに全権を一任して、失敗した場合には責任を取らせる」というのが日本における意思決定の「プランB」です。

安政の大獄は、この局面を打開するうまい方法を誰も思いつかなかったので、井伊直弼という一人の幕臣に独裁的な権限を丸投げして、失敗した場合(たぶん失敗するだろうとみんな予測していたと思います)には腹を切って責任を取らせるという「プランB」を採用したのだと思います。

井伊直弼が吉田松陰ほかの有為の人士を組織的に殺害したのは、別に彼らの個別的な思想信条を問題にしたというよりは、単に独裁制の強権性・非寛容性をアピールするためだったと思います。井伊直弼自身は吉田松陰がどんな人物なのかよく知らなかったのではないでしょうか。

 

5.坂本龍馬という人物の意見をお聞かせください。彼は維新活動の中どのような貢献をしましたか?

 

坂本龍馬は幕末の人士のうちで最も人気のある人です。

作家司馬遼太郎が『竜馬がゆく』(1962~66年)という小説を通じて、きわめて魅力的な人物を造型したことがその原因の一つです。名前の表記から分かるように、司馬が造型した「坂本竜馬」は現実の「坂本龍馬」とは別人ですが、読者はそうは解しませんでした。

坂崎紫瀾の『汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝』を除くと、龍馬についての情報はそれほど多くはありません。それでも、薩長同盟を成し遂げたこと、海援隊という日本最初の商社=海軍を創立したことは歴史的事実ですし、勝海舟の『氷川清話』や幸徳秋水の『兆民先生』などから断片的に知れる限りでも、闊達で海洋的な気風の人物だったと思われます。

 

龍馬の献策とされる「船中八策」には、上下院による議会政治・有能な人材の登用・不平等条約の改定・憲法の制定・常備軍の設置など、当時としては画期的に近代的・共和的な政体構想が描かれておりました。ですから、龍馬が生き延びて、明治政府に影響力を持ちうる立場にいた場合には、それから後の日本の近代化はずいぶん変わったもの(もっとずっと民主的で開放的なシステム)になっただろうと想像する日本人は私の他にもたくさんいるはずです。

 

6.歴史から見れば、新選組は幕府を保護する旧勢力で、非進歩な逆流ですが、なぜ彼らは日本人に愛させていますか?文化的な原因はありますか?

 

新選組の人気もフィクションによるところが多いと思います。

私が子どもの頃は大佛次郎の『鞍馬天狗』シリーズが次々と映画化されて大人気でしたが、主人公は勤王の志士鞍馬天狗(演じたのは嵐寛寿郎)で、新選組は敵役でしたので、決して「日本人に愛されている」ということはありませんでした。

新選組への好悪の評価が逆転したのは、これもフィクションの力が大きいと思います。子母澤寛の『新選組物語』(1955年)や司馬遼太郎の『燃えよ剣』(1962~64年)は新選組の人々を単なる記号的な悪役ではなく、ひとりひとりの相貌をリアルに描き出しました。その後、これらを原作にして無数の映画やテレビドラマが制作されました。

新選組人気を決定づけたのは1970年に放映され、土方歳三を栗塚旭が、沖田総司を島田順司が演じたテレビドラマ『燃えよ剣』でした。役を演じた俳優と歴史上の人物の境があいまいになったという点では、このドラマが画期的だったと思います。

 

坂本龍馬の場合も、あるいは西郷隆盛や大久保利通や木戸孝允のような維新の元勲たちにしても、それぞれの歴史的評価は、学術的に確定された歴史的な史料以上に、「彼らについてどのような物語が創作されたか」に依存します。後世にすぐれた物語の書き手を得た歴史的人物は末長く記憶される。これは世界どこでも、もちろん中国でも変わらないと思います。

子母澤寛の祖父はもと御家人で、箱館戦争で旧新選組隊士たちと共に官軍と戦った人でした。子母澤は子どもの頃にその祖父から新選組の人々の思い出話を聞かされて育ち、明治維新以来「朝敵」とされ、憎まれてきた新選組の「名誉回復」をめざして作家活動を始めた人ですから、その個人的な「復讐」はみごとに果たされたわけです。

 

7.岩倉使節団の各国歴訪は明治維新の政策提出にどんな影響を与えましたか?

 

岩倉使節団の歴史的意義は私にはわかりませんが、そのメンバー表を見ると驚くことが二つあります。

一つは、明治維新という政治革命が終わった直後(わずか4年後)に、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らの政府中枢部がごっそり抜けて2年間の外遊に出かけたことです。よくこんな大胆な決断が下せたと思います。留守中に国内で何か起きても、通信手段もないし、戻るための交通手段だって整っていないわけですから。

「政府中枢部が2年間留守をしても政体は安定する」という保証を誰がどういうかたちで行ったのか、むしろそれに興味があります。現に、彼らが戻った翌年(1874年)に佐賀の乱、3年後(1876年)には萩の乱、神風連の乱が起き、4年後(1877年)には西南戦争が勃発しているわけです。あるいは、「岩倉使節団が戻って来て、これから先の日本の統治システムについて答申を行うまで、国内の対立はペンディング」という暗黙の合意が(のちに反乱を企てる不平士族を含めて)国内的にはなされていたのでしょうか。私の方が専門家に質問したいくらいです。

 

もう一つの驚きは、帯同した留学生・随員の名簿のうちに、中江兆民、金子堅太郎、團琢磨、牧野伸顕、津田梅子、山川捨松、新島襄ら、その後の日本のさまざまな分野でリーダーとなる若者たちが含まれていたことです。新島襄が28歳、中江兆民が24歳、團琢磨が13歳、津田梅子に至っては6歳。短期間に人選を行って、まだ海のものとも山のものともつかぬ人たちの中からこれだけ優秀な人材を集め得たということは、明治の人々に「人を見る目があった」という以外に説明のしようがありません。いや、たいしたものです。

 

8.明治維新には暗の一面はありますか?封建主義の名残、先進ではない文化要素(男尊女卑など)、軍国主義の道への伏線など

 

明治維新の評価についてはここまでに述べた通りです。プラスの面もあるし、マイナスの面もある。それはあらゆる政治的事件の場合と同じです。ただ、さきほどから書いている通り、歴史的事件の評価は、最終的には、それについて語られた無数の物語の集積によって決まると私は思っています。豊かな物語、深みのある物語を生み出した歴史的事件は長く記憶され、人々はそこから歴史的教訓を引き出し、その事件を基準にして現在の出来事の適否を判断したりする。それは「生きた歴史的事件」となります。逆に、どれほどその時点では大きな社会的変動をもたらした事件でも、それについて語り継ぐ人がおらず、そこにかかわった人々の名をあるいは懐かしげに、あるいは敬意をこめて口にするということがなく、その出来事を「ことのよしあし」の判断基準にするという習慣が定着しなかったとしたら、それは「死んだ歴史的事件」だということになる。

明治維新についての物語はいまも語り続けられています。それはそれが「ほんとうはどういう出来事だったのか」について、まだ日本人の中でも、世界史の中でも、意味が確定していないということもあります(だからこそ、『知日』がこういう特集を組んだりもするのでしょう)。でも、それだけでなく、明治維新が日本人にとっては「まだ生きている政治的事件」だからだと私は思います。