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「死と身体」韓国語版のための序文(後編) ☆ あさもりのりひこ No.617

コミュニケーションと身体と死者。

この三つに共通するのは、「一意的に定義することができないけれど、一意的に定義できないことによって活発に機能する」という特性です。

 

 

2019年1月29日の内田樹さんの論考「「死と身体」韓国語版のための序文」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

素人が付け焼刃の勉強で出した答えでしたけれど、これが『看護学雑誌』に載って、看護師たちからずいぶん好評だったということを後から聞きました(実際に、このインタビューが掲載されたあと、いくつかの看護系の学会や看護の学校から講演の依頼がありました)。

編集者の白石正明さんが僕のところにやってきたのは、その頃です。おそらくこのインタビューを読んで、「変わったことをいう男がいるな」と思ったのでしょう。彼は「ケアをひらく」という医学書院の有名なシリーズの編集者で、「べてるの家の『当事者研究』」をはじめ、話題書を次々と出していました。そのシリーズの一冊として本を書いて欲しいというのです。

もちろん、「医療関係の本なんか、無理です。書けません」とお答えしました。

「あとがき」にあるように、その頃、僕は東京と大阪のカルチャーセンターで、コミュニケーションと身体についての7回の講演をしました。大学でもそういう講義をしていたので、資料はいろいろと手元にあったのです。

大学の授業ではあまり難しい話をすると学生が眠ってしまうのですが、カルチャーセンターでは受講生たちは真剣に僕のわかりにくい話にも聞き耳を立ててくれたので、つい気分がよくなって、ますます何を言っているのかわからない方向に話は逸脱してしまいました。

その講座に白石さんが毎回来て、講演を録音していました。あんなとりとめもない話をどうやって本にする気だろう、無理なんじゃないかなと思っていましたけれど、講座が終わってしばらくしてから、講演録を持ってきて、「あとは『まえがき』を50枚書けば完成です」と言ったのには、ほんとうに驚きました。あれほど取り散らかった話を、あちらこちらを切り貼りして、首尾一貫した講義のようにまとめてくれた白石さんの魔法使いのような手際のよさにはほとほと感服しました。

この本を書いた頃の僕がこだわっていた仮説があります。それは本文中にもでてきますけれど、「簡単な話は複雑にした方が話は簡単になる(ことがある)」というものです。

矛盾した言い方ですけれど、最初の「簡単」と二番目の「簡単」はレベルが違います。例えば、「私は正しい」と言い立てている人が二人いて対立している場合を想定してください。どちらかを正しくて、どちらかを間違いと裁定してしまうと話はとりあえず「簡単」になります。でも、「お前は間違いだ」と言われた方がその裁定に納得できなくて、「こんなのは認められない」と騒ぎ立てて、テーブルをひっくり返して暴れ出すと、話は全然「簡単」ではなくなります。

白黒の決着を付けずに、「どちらもちょっとずつ正しくて、ちょっとずつ正しくない」というふうに話を複雑にしてしまうという手もあります。そして、「どうです、両方でちょっとずつ歩み寄って、『双方ともに同じくらい不満な解』で手を打つというのでは」と持ちかける。「双方とも同じくらいに不満」で、正しくもないし、間違っているわけでもないという中途半端なあたりを「落としどころ」にして、「あと、細かいところは、そのつど調整して」というふうにしておく。話は全然解決していないのですけれど、これが持っていきかたがうまければ、双方ともふくれっ面をしながらも、「とりあえずまあこの問題はしばらく放っておいていいか」ということになる。最終的かつ不可逆的な解決にはほど遠いのだけれども、とりあえずは問題をめぐる争いはクールダウンする。当事者たちは別のことに知的リソースを注ぐことができる。そして、時間が経つにつれて、解決不能と思われていた問題が、別の条件の変化によって、どうでもよいものになってしまったりするんです。ほんとうに。

僕はこういう解決法を「問題を複雑にすることを通じて問題を簡単にする」というふうに呼んでいるのです。それをもう少し洗練して、使い勝手のよいものにできないかということがこの時期の僕の実践的な課題でした。それを理論的に基礎づけるために、コミュニケーションと身体と死者というトピックを扱ったのです。

コミュニケーションと身体と死者。

この三つに共通するのは、「一意的に定義することができないけれど、一意的に定義できないことによって活発に機能する」という特性です。こんな説明ではもちろん何のことか分からないでしょうから、その理論の詳細は本文を徴して頂ければと思います。

もう15年も前に書いたものですので、書いた僕自身、どういうつもりでこれらの文章を書き綴っていたのか、正確には思い出せません。でも、自分がどういうつもりで書いたのかもう忘れてしまったその書物の印税はいまでも僕の銀行口座に振り込まれる。韓国語版が出るときには、僕に許諾願いが来る。

書いた内容もよく覚えていない書物について、その翻訳の可否について判断する権利がいまの僕にあるのでしょうか。どうなんでしょうね。でも、別にそれが不当なことだとは思いません。だって、僕が今書いているこの文章の原稿料が振り込まれる頃に、それを受け取る未来の僕(今年の夏くらいの僕)は1月の終り頃にこの文章をどういうつもりで書いたのか、たぶん正確には思い出せないはずだからです。

そういうものなんです。それでいいんです。

「内田樹」というはなはだ輪郭のぼんやりした「書く主体」がいて、それはいろいろな時期に、いろいろなことを考えていて、いろいろな文体を駆使する複数の書き手によって構成されている。そのいわば「共作」として僕の書き物は存在する。ですから、いまの僕が書いたものについて未来の僕が「これは僕が書いたものだ」と著作権を請求できることを保証する代わりに、過去の僕が書いたものを今の僕が「これは僕が書いたんだよ」という権利を保全してもらう。そういうゆるやかな「共作関係」の効果として「内田樹という書き手」はいる。そういうことでいいんじゃないかと思います。

最後になりましたが、次々と僕の本を翻訳して、出版してくださる韓国のみなさんに心から感謝申し上げます。日韓両政府はいろいろと対立点があって、ぎくしゃくしていますけれど、それとは違うレベルで、市民同士はこうして親しく気持ちを通わせることができることを日韓の未来のためにとてもうれしく思います。これからもどうぞよろしくお願い致します。