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憲法と自衛隊(後編) ☆ あさもりのりひこ No.621

ポツダム宣言第6条にはこうある。

「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。」

 

 

2019年2月8日の内田樹さんの論考「憲法と自衛隊(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

渡邊さんへの名刺代わりに、「憲法と自衛隊に齟齬があることに何か問題でも?」という話を振った。

改憲派の人々は憲法九条と自衛隊の存在の間に齟齬があることを耐え難いと感じているようであり、しばしば「こんな国は日本以外にない」と言い立てるけれども、それは違う。

私が知る限り憲法の規定と軍隊の存在の間にもっとも深刻な乖離を抱え込んでいる国はアメリカ合衆国である。

アメリカ合衆国憲法はそもそも常備軍の存在を認めていないのである。

憲法第8条「連邦議会の立法権限」の第12項にはこうある。

「陸軍を召集(raise)し、これを維持(support)する権限。ただし、この目的のための歳出の承認は2年を超えてはならない」

13項「海軍を準備(provide)し、これを保持(maintain)する権限」

陸軍は必要なときに召集されるべきものであって、常備軍であるべきではないというのは建国の父たちの揺るがぬ確信であった。

それは常備軍は必ず為政者に従い、抵抗権をふるう市民と敵対するということを経験的に知っていたからである。

私たちが忘れがちなのは、アメリカは独立戦争を戦って宗主国から独立をかちとった植民地だということである。

アメリカの建国の正統性を保証するのは「抵抗権」であり、「革命権」なのである。

だから、市民の抵抗権、革命権の行使を妨げるはずの常備軍を持たないことを憲法に定めたのである。

これと市民の武装権を規定した修正第二条はいわば「コインの裏表」の関係にある。

常備軍は持たない。必要な武力はそのつど武装した市民を「民兵(militia)」として召集することで備給する。というのが建国の父たちの陸軍についての基本的なアイディアであった。

海軍については、そういう訳にはゆかない。特殊な技能育成と、長期にわたる組織的な訓練がないと帆船は動かせなかったからである。だからやむなく海軍については「準備し、保持する」ことを認めたのである。

それに海軍の場合、抵抗する市民たちは艦砲射撃の射程から外にいれば何の被害も受けないし、市民を弾圧するためには、海軍は陸に上がって陸戦を戦わなければならない。

だから「海軍は常備軍でもそれほど市民にとってリスクはない」という判断が下されたのである。

軍隊についての考え方がぜんぜん違うのである。

この憲法はその後改定されないまま今に続いている。

常備軍を持たないことを規定した憲法を持ちながら、アメリカは世界最大の軍事力を誇っている。

ここには致命的な齟齬があるのだけれども、「現実と合っていないから憲法を改定しろ」というアメリカ市民はいない。

それはこの齟齬を感じるたびに、「そもそもわれわれは何を実現しようとしてこの国を建国したのか?」という起源の問いに立ち戻ることができるからである。

「アメリカというのは一つのアイディアなんだ」とアメリカの友人に言われて、深く納得したということを柴田元幸さんがどこかに書いていた。

アメリカは何のために存在する国なのか、ということをアメリカ人はひとりひとり自分に問う義務があり、権利がある。

そのときの手がかりになるのが憲法であり、独立宣言である。

そこにこめられた「アイディア」がいまここでの現実と乖離している。

それをどう調整するべきなのか、それをアメリカ人は自分に問うのである。

日本国憲法も同じである。

そこには1946年時点で日本を占領していたGHQのニューディーラーたちの「アイディア」が込められている。

彼らは「天皇制を持っている以外はアメリカみたいな国」を制度設計した(のだと思う)。

だから、九条二項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という条項を書いたときに、彼らの脳裏にあったのは合衆国憲法第8条第12項、13項だったというのはありそうな話である。

ポツダム宣言第6条にはこうある。

「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。」

憲法起草者たちは、もしかすると「軍国主義者」を「常備軍」もろともに排除したあとには「平和主義者」と「抵抗権をもつ市民」がそれに取って代わると思っていたのかも知れない。

自分の国が「正しい国」だと思っている人たちは、「自分の国で起きたこと」は他の国でもあたかも自然過程のように起きるはずだと思い込みがちである。そして間違いなく、日本を占領したアメリカ人たちは自国が「正しい国」だと信じていた。

だから、彼らは軍国主義を排除したあとに「天皇制以外はアメリカみたいな国」ができるのではないかと無根拠に信じた。

権力に盲従する「常備軍」が廃絶されたあとに、自衛のために武装する市民たちがそれにとって代わるのではないか、と。

日本的なmilitiaができて、それがやがて準―軍隊的な組織になってゆく・・・と。

そういうようなことをGHQの人々は漠然と夢想していたのではないか。

起きなかったことの多くは、過去のある時点では「もしかするとそうなるのではないか」と思われていたことである。そして、その「蓋然性の高い未来」を勘定に入れて、人々はそのときに判断し、行動していた。でも、その予測は現実化しなかった。だから、その頃の人々がどうして「あんなこと」を言ったり、してたりしていたのかが、後から見ると理解できなくなる。

私は憲法と自衛隊の齟齬は、「憲法起草時点でアメリカ人が日本の軍事について夢想していたこと」と、その後の現実の齟齬として理解すべきではないかと思う。

「常備軍のない国を守る武装した民兵」は間違いなくアメリカ人にとっての軍事の理想である。そして、おそらく彼らは日本にも「アメリカ人にとっての軍事の理想」を適用できると思っていた。

民兵たちは自分たちの市民としての生命自由財産を守るために、権力者に抵抗して戦うのであって、他国との戦争に駆り出されることはない。

市民は交戦権を持たないし、そもそもそのようなものを持とうと望むこともない。

市民が求めるのは抵抗権である。

日本国憲法と現実の齟齬は、「どのような国をつくろうと願ったか」ということと「こんな国ができました」ということの間の隔たりとしてクールかつリアルに計測されるべきものだろうと思う。

その隔たりはわれわれに理想と現実のあいだの葛藤を絶えず主題化することを求める。それを踏まえて具体的な「次の一手」について論議し、合意を形成してゆくこと。それが「隔たりの功徳」ではなかろうか。

と言うような話をまず冒頭に渡邊さんに振ってみた。

渡邊さんは「合衆国憲法には常備軍の規定がない」というところで深く頷いて、合衆国憲法が「理想と現実のあいだを揺れ動くアメリカの歴史」をそのまま可視化したきわめて示唆に富んだ文書であることを指摘してくれた。そして、実際にアメリカは陸軍については「できるだけ常備軍を持たない」というルールを第二次世界大戦まではなんとか守ってきていた。いまのように常備軍化したのは、ここ50年のことだと渡邊さんは教えてくれた。

 

そこから話は地政学的な話題に展開してゆくのだけれど、私としては、憲法と現実の齟齬は「起草時点でどのような未来を望見していたか」を繰り返し遡及的に主題化するための重要な装置であるというアイディアを渡邊さんに認知してもらったので、それだけで深く満足したのである。