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言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。
2019年2月14日の内田樹さんの論考「言論の自由についての私見(再録)(後編)」をご紹介する。
どおぞ。
言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由な言論のゆきかう場」そのものであるという同意のことである。言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される、そのような「場が存在する」ということへの信用供与抜きに「言論の自由」はありえない。
むろん、つねに正しく言論の価値を査定する「場」が存在するというのは、ある種の「空語」である。
自由な言論の場では、すべての真なる命題は必ず顕彰され、すべての偽なる命題は必ず退けられると信じるほど私は楽観的な人間ではない。しかし、現実的に楽観的でありえないということと、原理的に楽観的であらねばならないというのは次元の違う話である。
私は「言論の自由が確保されていれば、言論の価値が正しく査定される可能性はそうでない場合よりはるかに高い」ということを信じる。
そして、この信念はそのような「場」に対する敬意として表現されるほかない。
私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど情緒的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。その原理は言語や親族や貨幣のような制度が起動する場合と変わらない。まず他者への贈与があり、それから、運動が始まる。
「場の審判力」への無償の信認からしか言論の自由な往還は始まらない。
もし、言論が自由に行き交うこの場の「価値判定力」を信じなかったら、私たちは何を信じればよいのか。
「場の審判力」を信じられない人間は、「私の言うことは正しい」ということを前件にして言葉を語り出すことしかできない。「お前たちが私の言うことを否定しようと、反対しようと、それによって私の言うことの真理性は少しも揺るがない」と言わなければならない。
しかし、もしそうだとしたら、彼には「自由な言論が行き交う場」に言葉を差し出さなければならないいかなる必然性があるのだろうか。せいぜい、洗脳、宣伝、教化のために功利的に利用することしかできまい。むろん、その場合には、彼の言葉に対するすべての疑問や異議申し立ては「真理」の名において退けられる。だが、そのような言論のありようを「言論の自由」のみごとな実現であると思う人間は一人もいない。
言論の自由とは、まさにその「場の審判力」に対する信認のことだからである。言論において私たちが共有できるのは、それぞれの真理ではない(それは「それぞれの真理」であるという時点ですでに共有されていない)。私たち「それぞれの真理」の理非が判定される「共同的な場」が存在するということについての合意だけである。
そのような「場」はレディメイドのものとして、制度的にごろりとそこにある、というものではない。それは私たちが身銭を切って、額に汗して、創り出さなければならないものである。
だからこそ、「日本には言論の自由がない」と書いた社会学者の言葉に私はつよい違和感を覚えたのである。「言論の自由」とは「場の審判力に対する信認」のことであり、「私は私が今発している当の言葉の正否真偽を査定する場の審判力を信じる」という遂行的な「誓い」の言葉を通じてしか実現しない。そのような場は「存在するか、しないか」という事実認知的なレベルではなく、そのような場を「存在させるか、させないか」という遂行的なレベルに出来するのである。「場への信認」は私が今現に言葉を差し出している当の相手の知性と倫理性に対する敬意を通じて、今この場で構築される他ないのである。「言論の自由」はどこかにかたちある制度として存在しているわけではない。そうではなくて、今ここで、私たちが言葉を発する当のその瞬間に私たちが「身銭を切って」成就しつつあるものなのである。
むろん、私の差し出したメッセージが「偽」の判定を受けて退けられる可能性はつねにある。だから、私は私の主張が相当数の人にとって「耐え難いもの」であると思われる場合には(例えば私が今主張していることは「理解し難い」ことの一つである)、できる限り論理的に、情理を尽くして、理解を得られるように言葉を選ぶことにしている。
正しさを担保するのは正しさではない(それは「私は正しい。なぜなら私は正しいからだ」という原理主義的な同語反復にしか帰着しない)。正しさを担保するのは正否の判定を他者に付託できるという人間的事実である。
誤解されないように急いで付け加えるが、この付託は現に他者たちが過たず真偽正否の判定を下すという事実に基礎づけられているのではない。そうではなくて、この付託によって、真偽正否の判定を下しうるような知性と倫理性に「生き延びるチャンスを与える」ことができるという事実に基礎づけられているのである。
信認だけが、人間を信認に耐えるものにする。
そのことを私は「受信者への敬意」、「受信者への予祝」、あるいは端的にディセンシー(decency 礼儀正しさ)と呼んでいるのである。
それは「呪い」の対極にあるところのものである。
私たちは今のところ言論の自由をゆたかに享受している。けれども、この事態を「言論の自由など存在しないと言い放つ自由」や「呪いの言葉を吐く自由」に矮小化する人々が「言論の自由」の基盤を休みなく掘り崩してるということについては十分に警戒的でなければならないと私は思っている。