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メディアリテラシーについて ☆ あさもりのりひこ No.626

いま肝に銘ずべきことは、「私たちひとりひとりがメディアリテラシーを高めてゆかないと、この世界はいずれ致命的な仕方で損なわれるリスクがある」ということである。

 

 

2019年2月22日の内田樹さんの論考「メディアリテラシーについて」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

標記の主題についてこれまでに書いたものをいくつか採録しておく。

最初は2007年に書いたもの。話は古いけれど、言いたいことは変わらない。

 

閣僚の資産公開の記事の中にある閣僚が持っているテレビ局の株が値下がりしてたいへん困っているということが載っていた。閣僚は株の売買が禁じられているので、値下がりしても売ることができず、指を咥えて資産価値が目減りしてゆくのを眺めるしかないらしい。気の毒なことである。

だが、それ以上に驚いたのは、この人が持っているフジテレビの株が過去7年間で293万円から26万円まで値下がりしているという事実の方であった。「テレビはもう終わりなのかな」というため息まじりの感想をその閣僚は述べていた。

フジテレビといえば業界屈指の優良企業のはずである。その株が数年間で10分の1以下にまで値下がりしているという事実を私は知らなかった。もちろん株式欄を熟読している人にとっては周知のことなのであろうが、私は知らなかった。それはこの事実を社会構造上の大きな変化の徴候として指摘し分析することに、これまでメディアは特段の興味を示してこなかったということを意味している。 

メディアはメディアについて報道しない。これは私が経験的に学んだことの一つである。

以前、ある新聞の紙面研究会に呼ばれたときに「なぜ新聞はテレビの『没落』について報道しないのか?」と問いかけたことがある。居並んだ記者たちは誰も答えてくれなかった。一人の記者が「愚劣なテレビ番組について批判的に報道すれば、その番組の視聴率が上がるだけですから」というシニカルなコメントをしただけである。

それでよいのだろうか。テレビというのは毎日数千万人の人が視聴する巨大なメディアである。にもかかわらず、どのような見識をもった人物が経営を担当しており、どのような財政基盤に支えられており、どのような人事戦略で社員は採用されており、放送内容はどのように決定されており、スポンサーや代理店はどの程度番組内容に関与するのかといった基本的なことについて、私たちは何か事件(ファンドによる買収やプロデューサーの汚職など)が起きたとき以外にはほとんど何も知らされない。

インターネット上で画像も音声も文字もが超高速で行き来する時代に、地上波テレビのような「恐竜的」メディアが10年後も存在しているのかどうか、私は率直に言って予測することが困難だろうと思っている。であれば、このことは当然国民的関心の対象になってよいトピックのはずである。

けれども、「テレビはいつ、どういうかたちで消えるのか?生き延びることができるとしたら、どのような条件をクリアーすることによってか?」という重要な論件について論じているメディアを私は知らない。少なくともテレビ関係者たちには「テレビの消滅」の可能性とその様態について、多少なりとも想像力を発揮する気持ちはなさそうである。

株価が7年間で10分の1に下がったということは「テレビには先がない」ということについてマーケットではすでにひそかな同意が形成されつつあるということである。けれども、テレビはその事実を報道しないし、もっぱらテレビを情報源とする数千万の日本国民もそのことを知らない。

「メディア・リテラシー」という言葉を「メディアにあふれかえる情報の中から有用でかつ信頼するに足るものを選び出す能力」のことだと思っている人が多いようだけれど、それでは説明が足りないのではないか。むしろ、私たちに必要なのは「メディアには決して情報として登場してこないもの」を感知する能力ではないのだろうか。いくつかの断片的事実から推して、そこに当然あってしかるべきなのに「誰もそれに言及しようとしない情報」を探り当て、「その情報はどうして報道されないのか?」と問い返す力がおそらくは最も重要な情報評価能力ではないかと私は思う。

 

次の記事も2007年

 

NHKが01年放送の「女性国際戦犯法廷」のドキュメンタリー番組で政治的圧力を受けて番組内容を改変した事件について、東京高裁がNHKに賠償命令を下した。関西テレビの「あるある大事典」問題はまだ全容が解明されていないが、次々と捏造が暴かれている。

テレビメディアの中立性やフェアネスに対する社会的信用はずいぶん低下したようである。

しかし、「テレビの言うことならほんとうだろうと信じていたのに。裏切られた気持ちです」というようなナイーブなコメントを読むと、それはそれで、背筋に寒気が走る。

というのは、テレビが虚偽を報道したのを知って、「裏切られた気持ちです」というようなことをしれっと言ってのける「無垢な視聴者」のポーズそのものがすでに「テレビ化された定型」に他ならないからである。

「視聴者はメディアの言うことをすべて無批判に信じるのだから、メディアは真実のみを報道すべきだ」という「正論」に私は与しない。

後段の「メディアは真実のみを報道すべきだ」というのはたしかにご卓説ではあるが、ほとんど現実性がない。「これこそが真実だ」と複数の情報源が別の事実を言い立てる場合、メディアはそのどれかを選択しなければならない。そこで報道されるのは「メディアが真実だと信じたこと」ではあるが、それは必ずしもつねに真実ではない。

それ以上に問題なのは前段の「視聴者はメディアの言うことをすべて無批判に信じる」という部分である。これは現実ではないし、それ以上に現実であってはならないと私は思う。

「メディアは中立的・客観的な立場から、真実のみを報道しているので、私たちはそれをすべて信じることができる」と国民がきっぱり言い切れる社会があったとすれば、それは恐怖政治の行われている社会だけである。私はそのような社会の到来を望まない。

だから、視聴者のそのようなナイーブな言明が「実現されるべき理想」であるかのように語るメディアの態度を支持しない。

どれほど嘘をついても、人は嘘をつくことを通じておのれの欲望を露呈することからは逃れられない。メディアが虚偽の報道をし、事実を歪曲した場合でも、私たちは「虚偽を伝え、事実を歪曲することを通じて、メディアは何をしようとしているのか?」と問うことができる。メディア・リテラシーとはその問いのことである。

メディアはしばしば嘘をつく。それをとどめることはできない。だから、私たちはメディアの伝える情報における「真実含有率」について、自己責任で判断を下すべきだし、下せなければならないと私は思っている。その能力開発に資源を投じる方が、「決して嘘をつかないメディア」の構築を夢見ることよりもはるかに現実的だろう。

 

だいぶ時間があいて、こちらは2017年のAERAの記事。短いけれど、私の言いたいことはここに尽くされている。

 

IT大手DeNAが運営する医療情報サイトが、根拠のあいまいな医療情報を掲載したために公開中止に追い込まれた。

ネット上の閲覧数が上がると広告収入が増える仕組みなので、とにかくページビューを増やしたい。そこで外部ライターには多くのキーワードを盛り込んで検索結果の上位に来るように書くこと、既存記事のコピペであることがばれないように文言を書き換えることがマニュアルで指示されていた。

アメリカ大統領選挙ではネット上に大量の偽情報が飛び交った。ロシアのハッカーがトランプ氏を当選させるために組織的に動いたということも、CIAは報告している。

これらのニュースについて、「ネット情報の信頼性を損なった」という批判をしても始まらないと私は思う。ネット情報というのは所詮は「その程度のもの」である。

それに、この事件を手厳しく批判するテレビも新聞も、情報の信頼性においてそれほどアドバンテージを誇れるわけではない。

いま肝に銘ずべきことは、「私たちひとりひとりがメディアリテラシーを高めてゆかないと、この世界はいずれ致命的な仕方で損なわれるリスクがある」ということである。

そのことをもっと恐れたほうがいい。

メディアリテラシーというのは、勘違いしている人が多いが、流れてくる情報のいちいちについてその真偽を判定できるだけの知識を備えていることではない。そんなことは誰にも不可能である。自分の専門以外のほとんどすべてのことについては、私たちはその真偽を判定できるほどの知識を持っていないからである。

私たちに求められているのは「自分の知らないことについてその真偽を判定できる能力」なのである。

そんなことできるはずがないと思う人がいるかもしれない。けれども、私たちはふだん無意識的にその能力を行使している。

知らないことについて、脳は真偽を判定できない。けれども、私たちの身体はそれが「深く骨身にしみてくることば」であるか「表層を滑ってゆくことば」であるかを自然に聞きわけている。

 

古いバイオリンの音色は、ヨーロッパの石造りの家の厚い壁を通して、遠い部屋でも聴き取れるという。そのような言葉だけが耳を傾けるに値する。