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『武道的思考』文庫版のための序文(前編) ☆ あさもりのりひこ No.645 

堤防が決壊したあとに、濁流から鮮やかに逃れる超絶的な能力よりも、堤防の「蟻の穴」をみつけて、そこに小石を差し込んで、洪水を起こさないようにする配慮の方がより武道的だということです。

 

 

2019年3月17日の内田樹さんの論考「『武道的思考』文庫版のための序文」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

武道的思考 文庫版のためのまえがき

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

『武道的思考』が文庫化されることになりました。

『武道的思考』は2010年に筑摩選書が創刊されたときに、シリーズ第一巻という名誉ある番号を頂いて刊行されました。出てから10年近く経ち、文庫に化粧直しして、再びのお勤めということになりました。手ごろな価格になって多くの方にお読み頂けることになるのは、書き手としてはとてもうれしいことです。筑摩書房のご厚意に感謝申し上げます。

 

本書は、ご覧頂ければわかるように、書き下ろしではなく、さまざまな媒体に寄稿したものやブログに書いたものを筑摩書房の吉崎宏人さんが丹念に拾い集めて、編集してくださったものです。

こういうコンピレーション本では、僕が食材を提供して、それを編集者が料理するという分担になります。出来上がるものを見るまで、僕自身にも、それがどんな本になるか分からない(野菜を出荷した農家が、それがどんな料理になるのか予測できないのといっしょです)。とりわけ、この本を出した頃は、大学の学務がすごく忙しかったので、出たばかりの自著の新刊を熟読する余裕がありませんでした。ですから、たまに「『武道的思考』読みましたよ」と読者の方に声をかけられても、「あ、そうですか。や、どうも」とあいまいな顔で微笑むしかできなかった。書いた本人なのにどんな本だったかよく思い出せなかったからです。

それから約10年経って、文庫化することになったので、ゲラが送られてきました。そして、読んでみたら、「ふうん、こんな本だったのか」とちょっとびっくりしました。

「あとがき」に「不穏な本」と書いてありましたけれど、たしかにかなり「挑発的な本」でした。「こんなこと書いちゃっていいのかな・・・」といまならちょっと逡巡するようなことが気にせず書いてあります。

ブログに書いたものは、もともと出版されることを予想しないで、「顔の見える読者」宛てに書いたものですから、「歯に衣を着せる」というような配慮がほとんどありません。でも、編集の吉崎さんはどうやら好んで「そういうもの」を選び出したようです。

当時、編集部内でも「こんなの出して大丈夫なのか?」というような懸念が表明されたことがあったんじゃないでしょうか(僕が吉崎さんの上司だったら、一応は確かめます。「吉崎くん、大丈夫なんだろうね。こんな本出して。ややこしい筋からクレームとか来ないよね?」)。文庫化されたということは、その懸念はクリアーされたということなんでしょうね。きっと。

 

本書で扱われているトピックは武道だけには限定されません。教育問題も論じていますし、政治のことも、文学のことも、歴史のことも、結婚や家族のことも論じています。それらの論件がいずれも「武道的」に思量されているというのがタイトルの由来だろうと思います(自分でつけたタイトルのはずなのに、「思います」で申し訳ありません)。でも、たぶんそうです。

「武道的に思量する」「武道的にふるまう」というのは、どういうことか。それについて現段階での僕の理解をここに書いて「文庫版のためのまえがき」に代えたいと思います。

 

第一に、それは「ありもので間に合わせる」ということです。

戦場においては、ものが足りなくても、コンビニで買い足すことも、Amazonで配達してもらうこともできません。装備が貧弱でも、兵士の練度が低くても、「こんなのじゃ戦えない。いいのに替えてくれ」というわけにはゆかない。手持ちの資源をやりくりして急場をしのぐしかない。「ありものの使い回し」しか許されない。理想とか、「本来あるべき姿」とか、そういうものと現状の乖離について泣訴することができない。

手持ちの資源をやりくりして、なんとかしのぐしかない状況のことを「急場」と呼ぶわけで、武道というのは、「急場」において適切なふるまいをするための技術のことです。

「手持ちの資源をやりくりする」というのは、言い換えると、手持ちの資源の蔵している潜在可能性を最大化するということです。言葉はシンプルですけれど、実はなかなか複雑な仕事を要求します。というのは、それができるためには、その前段として、一つやっておくべきことがあるからです。

「前段として」です。「やりくり」の前にやっておかないといけないことがある。

武道的というのは、本質的には「対症」ではなく、「予防」の心構えのことです。

トラブルが起きた後になって、ややこしいタスクをてきぱきと処理する人の「対症的」な手際はたしかに見事なものですし、その能力を高く評価する社会も存在します(例えば、アメリカはそうです)。でも、ほんとうは「トラブルが起きる前に、その芽を摘んでおいたり、巻き込まれないように気づかっていた人」の予防的配慮の方が武道的には卓越していると僕は考えます。 

堤防が決壊したあとに、濁流から鮮やかに逃れる超絶的な能力よりも、堤防の「蟻の穴」をみつけて、そこに小石を差し込んで、洪水を起こさないようにする配慮の方がより武道的だということです。

リスクを事前に察知して、破局的事態に際会しないように身を処すこと、それがさしあたり「予防的」ということですけれど、これにはもっと積極的な意味もあります。

それは、急場において大きな力を発揮できるような「手持ちの資源」をあらかじめ仕込んでおくことです。

 

まだ何も起きていない時点から、つねに「豊かな潜在可能性を蔵しているもの」に目を配り、それをこつこつと収集しておいて、それによって「手持ちの資源」を構成しておく。