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憲法について(その7) ☆ あさもりのりひこ No.675

歴史修正主義が出てくる文脈は世界中どこでも同じです。戦争経験者がしだいに高齢化し、鬼籍に入るようになると、ぞろぞろと出てくる。現実を知っている人間が生きている間は「修正」のしようがないのです。

 

 

2019年3月31日の内田樹さんの論考「憲法について(その7)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

日本国憲法だってそうです。これもまた圧倒的な政治的実力を持つ超憲法的主体によって制定された。それが誰であり、どういう歴史的経緯があって、そのような特権をふるうに至ったのかという「前段」は、憲法のどこにも書かれていない。「上諭」にも書かれていない。でも、知っている人は知っている。そして、日本国憲法の場合は、「知っている人」たちがそれについて久しく口を噤んでいたということです。憲法が「ろくでもないもの」だと思っていたら、制定過程についての「裏情報」はもっと流布していただろうと思います。でも、戦中派はそう思わなかった。すばらしい憲法だと思った。だから、制定過程について何も語らないことにした。

戦中派はそれを善意で行ったのだとおもいます。戦後の日本社会を1945815日以前と完全に切り離したものとして、戦前と繋がる回路を遮断した無菌状態のものとして立ち上げようとした。だから、戦争の時に何があったのか、自分たちが何をして来たかについて口を噤んだ。憲法制定過程についても、黙して語らなかった。語るためには、日本には、主権者である「日本国民」のさらに上に日本国民に主権者の地位を「下賜」した超憲法的主体としてのアメリカがいる。それは自分たちが戦争をして、負けたせいだという真実を語らなければならない。それもまた戦後世代の子どもたちに言って聞かせるにはあまりにつらい事実だった

戦争経験について、とりわけ加害経験について語らないこと、憲法制定過程について、日本は国家主権を失い、憲法制定の主体たり得なかったということを語らないこと。この二種類の「戦中派の沈黙」が戦後日本に修正することの難しい「ねじれ」を呼びこんでしまった。僕はそう思います。でも、僕はそのことについて戦中派を責めるつもりはないのです。彼らは善意だったと思うから。僕たち戦後世代が戦争と無縁な、戦時における人間の醜さや邪悪さとも、敗戦の屈辱とも無縁な者として育つことを望んでいたからそうしたと思うからです。

だから、彼らの沈黙には独特の重みがあった。実存的な凄みがあった。「その話はいいだろう」といって低い声で遮られたら、もうその先を聞けないような迫力があった。だから、彼らが生きているあいだは歴史修正主義というようなものの出る幕はなかったのです。仮に「南京虐殺はなかった」というようなことを言い出す人間がいても、「俺はそこにいた」という人が現にいた。そういう人たちがいれば、具体的に何があったかについて詳らかに証言しないまでも、「何もなかった」というような妄言を黙らせることはできた。

歴史修正主義が出てくる文脈は世界中どこでも同じです。戦争経験者がしだいに高齢化し、鬼籍に入るようになると、ぞろぞろと出てくる。現実を知っている人間が生きている間は「修正」のしようがないのです。それは、ドイツでもフランスでもそうです。今日は日仏会館での講演ですから、フランスのことに詳しい方もおられるでしょう。

 

フランス人も自国の戦中の経験に関しては記憶がきわめて選択的です。レジスタンスのことはいくらでも語りますけれど、ヴィシー政府のこと、対独協力のことは口にしたがらない。フランスでヴィシーについての本格的な研究が出て来たのは、1980年代以降です。それまではタブーだった。それはその時期を生きてきた人たちがまだ存命していたからです。自分自身がヴィシーに加担していた人もいたし、背に腹は代えられず対独協力をして、必死で占領下を生き延びた人もいた。彼らがそれぞれの個人的な葛藤や悔いを抱えながら、戦後フランスを生きていることを周りの人は知っていました。そして、それを居丈高に責めることに抵抗があった。

ベルナール=アンリ・レヴィが『フランス・イデオロギー』という本を書いています。僕が訳したんですけれども 、ドイツの占領下でフランス人がどのようにナチに加担したのかを赤裸々に暴露した本です。レヴィは戦後生まれで、ユダヤ人ですから、戦時中のフランスの行為については何の責任もない。完全に「手が白い」立場からヴィシー派と対独協力者たちを批判した。でも、これが出版当時大論争を引き起こしました。

少なからぬ戦中派の人々がレヴィの不寛容に対して嫌悪感を示しました。レイモン・アロンもレヴィを批判して、「ようやく傷がふさがったところなのに、傷口を開いて塩を擦り込むような不人情なことをするな」というようなことを書いていました。せっかく忘れかけているトラウマ的過去なのに、それをまた思い出させるようなことをすべきではない、と。

アロンの言っていることは筋の通らない話なんです。でも、「大人の言葉」だとは思いました。「もう、その話はいいじゃないか」というアロンの言い分は政治的にはまったく正しくありません。でも、その時代を生きてきた人にしか言えない独特の迫力があった。アロン自身はユダヤ人ですし、自由フランス軍で戦ったわけですから、ヴィシーや対独協力者をかばう義理はないんです。だからこそ、彼がかつての敵について「済んだことはいいじゃないか。掘り返さなくても」と言った言葉には重みがあった。

 

80年代からしばらくはヴィシー時代のフランスについてのそれまで表に出なかった歴史的資料が続々と出てきて、何冊も本が書かれました。でも、ヴィシーの当事者たちは沈黙を守った。秘密の多くを彼らは墓場に持っていってしまった。人間は弱いものですから、自分の犯した過ちについて黙秘したことは人情としては理解できますけれど、結果的にヴィシーの時代にフランス人が何をしたのかを隠蔽したせいで、そのあとに歴史修正主義者が登場して来て「ガス室はなかった」というようなことを言い出すようになった。そのあたりの事情は実は日本とそれほど変わらないのです。