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その後日本はGDPで中国に抜かれ、時価総額で香港の株式市場に抜かれ、モノづくりでも、学術的発信力でもアジア諸国に抜かれ、報道の自由度でも、女性の社会進出でも、先進国最下位が定位置になってきました。
2019年4月15日の内田樹さんの論考『ためらいの倫理学』韓国語版序文「お気軽であることの効用について」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
私の物書きとしてのデビュー作『ためらいの倫理学』が韓国語訳されることになった。
翻訳してくれるのは、いつもの朴東燮先生。韓国語版に序文をお願いされたので一文を草した。
みなさん、こんにちは。内田樹です。
『ためらいの倫理学』の韓国語版が翻訳されました。
翻訳の労をとってくださった朴東燮先生にまずお礼を申し上げます。朴先生はこれまで僕の本を何冊も翻訳してくださっていますけれど、本書の翻訳については、とりわけ深い感謝の気持ちを抱いております。それはこの本が僕の「物書き」としてのデビュー作だからです。
この本は2001年の3月に冬弓舎という京都にある小さな(内浦亨さんという方が一人でやっている)出版社から刊行されました。その経緯については、本文にも詳細が書いてある通りです。内浦さんが、ネット上に書き散らした僕の雑文を読んで、「これをまとめて本にしよう」と思わなければ、この本は存在することがありませんでした。この本が存在しなければ、それからあとの僕の物書きとしてのキャリアはずいぶん違ったものになっていたはずです。場合によっては、エマニュエル・レヴィナスについての研究書と翻訳以外には刊行物を残すことなく、一部の専門家に名を知られるだけで人生を終えたかも知れません。それを考えると、内浦さんとの出会いとこの本の存在によって僕の人生が大きく変わったわけです。内浦さんは僕よりずっと年下でしたけれど、先年交通事故で亡くなられました。僕にとっては忘れることのできない恩人です。
2001年に刊行されたアンソロジーですから、本書に収録されたテクストはどれも20世紀の最後、90年代後半に書かれたものです。
20年以上を経て、改めて読み返してみると、「若いなあ。元気だなあ」と思います。本書中で、僕は「老狐」とか「初老の男」とか自称して、老人ぶっていますけれど、実はまだお肌つるつるの四十代でした。僕自身が若かっただけでなく、日本社会もバブル崩壊で一時の勢いは失速したものの、それでも世界第二位のGDP大国であり、まだまだ「金回りのよかった」時代でした。その時代の「余裕」のようなものが行間からにじんでいます。
その後日本はGDPで中国に抜かれ、時価総額で香港の株式市場に抜かれ、モノづくりでも、学術的発信力でもアジア諸国に抜かれ、報道の自由度でも、女性の社会進出でも、先進国最下位が定位置になってきました。そこまで落魄してから振り返ると、90年代のように「金回りがいい」と、人は「鷹揚」になるということが分かります。自分の金儲けに忙しいので、他人のことにあまりうるさく口を出さなくなるのです。他人の成功を妬んだり、他人の努力に水を差したりということがあまりない(多少はありますけど)。ことあるごとに査定や格付けをしたり、「エビデンスを出せ」とか「数値目標に達しなければペナルティを課す」とか「生産性を上げろ」とかがみがみ言われることもなかった。
金儲けに忙しい人はずいぶんお忙しかったようですが、僕は金儲けにはぜんぜん興味がなかったので、放っておいてもらえた。時々、おせっかいな友人がやってきて、「どうして金儲けしないんだ? 簡単だぞ。道に落ちている札束を拾うようなものなんだぞ」と友情ある説得をしてくれましたが、僕は笑って取り合いませんでした。先方も忙しいですから「バカじゃないの。勝手にしろ」と言い捨てて、立ち去ってくれました。
僕の専門はフランスの哲学と思想史です。20世紀の日本においても何の実利性も有用性もない学問分野でした。「そんな研究をやって何の役に立つのだ」と訊かれても、僕にだって答えられなかった。でも、「みんな金儲けに忙しくて、他人のことになんか構ってられない時代」でしたし、国にも自治体にも、お金は余っていたので、僕のような人間にも奨学金や給料や研究費がちゃんと回ってきました。おかげで、心おきなく「何の役にも立たない研究」に打ち込むことができました。ですから、この本は「かつて日本が豊かで、何の役にも立たない研究が許された時代の文系学者のお気楽な書き物」の一典型として、一種の歴史的資料としての価値があるものではないかと思います。