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『善く死ぬための身体論』のまえがき(前編) ☆ あさもりのりひこ No.683

武道家は懐疑的であってはならない。

 

 

2019年4月15日の内田樹さんの論考「『善く死ぬための身体論』のまえがき」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

今回は成瀬雅春先生との対談本です。成瀬先生とは以前『身体で考える』(マキノ出版、2011年)という対談本を出しましたので、これが二冊目となります。

成瀬先生とはじめてお会いしたのは、1990年代の初め頃ですから、もう四半世紀ほど前になります。成瀬先生のことは、先生の下でヨーガの修業をされていた合気道自由が丘道場の笹本猛先輩からよくうかがっておりましたし、著作も何冊か拝読しておりました。その成瀬先生が西宮の教会で倍音声明のワークショップをやるというのを知って、「おお、これは行かねば」と神戸女学院大学合気道部の学生たちを引き連れて行ったのが先生とお会いした最初です。

小さな教会で、参加者もごく少人数でしたけれど、はじめてお会いする成瀬先生はそんなこと気にする様子もなく、機嫌よく倍音声明のやり方を僕たちに教えて、「じゃ、始めましょう」とセッションを進めました。僕の中では成瀬先生は「すごくミステリアスな、近寄りがたい人」という先入観があったので、こんなに間近で、こんなに親密な環境でやりとりできるとは思っていませんでした。それですっかり安心して、その半年くらいあとに大阪であった倍音声明のセッションにも参加しました。

でも、その後、阪神の震災があって、僕も被災して、生活再建に手間取り、病気にもなって、しばらく成瀬先生との出会いも途絶えていました。先生との交流が再開したのは、震災から数年経って、五反田にある成瀬先生のヨーガ教室で、僕の合気道の師匠である多田宏先生(合気会師範、合気道九段)と成瀬先生との対談を聴きに行ったときです。たいへん面白い対談でした。

帰途、五反田駅まで歩く道筋で、多田先生に「成瀬先生って、ほんとうに空中に浮くんでしょうか?」と伺ってみたら、多田先生がにっこり笑って「本人が『浮く』と言っているんだから、そりゃ浮くんだろう」とお答えになったのが僕の腹にずしんと応えました。なるほど。

武道家は懐疑的であってはならない。

そんな命題が成立するのかどうかわかりませんけれど、何を見ても、何を聴いても、疑いのまなざしを向けて、「そんなこと、人間にできるはずがないじゃないか」というふうに人間の可能性を低めに査定する人間が武道に向いていないことはたしかです。

でも、実際にそのような「合理的」な人は武道家の中にもいます。そういう人は筋肉の力とか、動きの速度とか、関節の柔らかさというような、数値的に表示できる可算的な身体能力を選択的に開発しようとする。でも、実際に稽古をしているときに僕たちが動員している身体能力のうち、数値的に表示できるものはたぶん1%にも満たないんじゃないかと思います。していることのほとんどは、中枢的な統御を離れて、自律的に「そうなっている」。いつ、どこに立つのか、どの動線を選択するのか、目付けはどこに置くのか、手足をどう捌くのか、指をどう曲げるのか・・・などなど。ただ一つの動作を行うにしても、かかわる変数が多すぎて、そのすべてを中枢的に統御することなんか不可能です。身体が勝手に動いている。身体が自律的にその時々の最適解を選んでくれる。淡々と稽古を積んでゆくうちに、そういう「賢い身体」がだんだん出来上がってきます。それは「主体」が計画し、主導しているプロセスではありません。

武道の稽古のおいては、「こういう能力を選択的に開発しよう」ということができません。だって、「どういう能力」が自分の中に潜在しているかなんて僕自身が知らないから。あることができるようになった後に、「なんと、こんなことができるようになった」と本人もびっくりする。そういうものです。修業においては事前に「工程表」のようなものを作成することができない。自分が何をしたいのか、何ができるようになるか、予測できないんですから。

そのどこに向かうのか分からない稽古の時に手がかりになるのはただ一つ「昔、こういうことができる人がいたらしい」という超人たちについてのエピソードです。そのような能力の「かけら」でも、もしかすると自分の中には潜在的にひそんでいるのかも知れない、修業を積んでいるうちに、思いがけなくそういう能力が部分的にではあれ発現するかも知れない、それだけが修業の手がかりになります。とにかく、僕はそういうふうに考えることにしています。

そういう割と楽観的でオープンマインデッドな修業者と「そんなこと、人間にできるはずがない。そういうのはぜんぶ作り話だ」と切って捨てる「科学主義的」な修業者では、稽古を十年二十年と重ねてきた後に到達できるレベルが有意に変わります。これは間違いない。

どんな異能であっても「そういうことができた人がいる」という話は受け入れる。「そういうことって、あるかも知れない」と思う。そして、どういう修業をすれば、どういう条件が整うと、「そういうこと」ができるようになるのか、その具体的なプロセスについて研究し、実践してみる。

僕はそういうふうに考えています。

だって、それによって失われるものなんか何もないんですから。自分の中にひそむ可能性を信じようと、信じまいと、日々の稽古そのものに割く時間と手間は変わらない。だったら、「そういうことができる人間がいる」と信じた方がわくわくするし、稽古が楽しい。

人間の潜在可能性についてのこの楽観性と開放性は武道家にとってかなりたいせつな資質ではないかと僕は思います。現に、僕が尊敬している武道家である甲野善紀先生も光岡英稔先生も、「信じられないような身体能力の持ち主」についての逸話についてはたいへんにお詳しい。

 

ちょっと話が逸れましたけれど、とにかくその時に多田先生がにっこり笑っておっしゃった一言で僕は「武道家のマインドセット」がどうあるべきかについては、深く得心したのでした。

成瀬先生が時々僕にお声がけをしてくれて、対談をするようになったのは、それからの話です。そのおかげで、対談本もこれで二冊目になったわけです。それはたぶん僕が成瀬先生が語られる「信じられないような逸話」について、「そんなことあるはずがないじゃないか」というような猜疑のまなざしを向けず、「どういう条件が整えば、そういうことが起きるのか?」という方向に踏み込んでゆくからではないかと思います。

でも、これを「軽信」というふうには言って欲しくありません。不思議な現象に遭遇した時に、「自分の既知のうちにないものは存在しない」と眼をそむける人より、「どういう条件が整えば『こんなこと』は起きるのか?」を問う人の方がおそらく科学の発展には寄与するはずだからです。