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『善く死ぬための身体論』のまえがき(中編) ☆ あさもりのりひこ No.685

どうしてこんなに生命力が衰えたのか。

その理由の一つはなんだか散文的な表現になりますけれど、産業構造の変化だと思います。

もう農作物をつくった経験のある人が少なくなったということです。

 

 

2019年4月15日の内田樹さんの論考「『善く死ぬための身体論』のまえがき」(中編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

今回の対談は「現代人の生きる力の衰え」についての話から始まります。どうしてこんなに生命力が衰えたのか。本書では語り切れなかったので、ちょっとだけここで加筆しておきますけれど、その理由の一つはなんだか散文的な表現になりますけれど、産業構造の変化だと思います。

もう農作物をつくった経験のある人が少なくなったということです。

僕や成瀬先生が生まれ育った1950年代の日本には農業就業者が2000万人いました。ですから、多くの人にとって、「ものを作る」という時にまず脳裏に浮かぶのは農作物を育てることでした。種子を土に蒔いて、水や肥料をやって、太陽に照らし、病虫害から守っていると、ある日芽が出てきて、作物が得られる。人為がかかわることのできるのはこのプロセスのごく一部に過ぎません。他にあまりに多くのファクターが関与するので、どんなものが出て来るのかを正確に予測することはできません。だから「豊作」を喜び、「凶作」に涙した。

でも、今はそんなふうにものを考える人はもう少数派です。現代人が「ものを作る」という時にまず思い浮かべるのは工場で工業製品を作る工程だからです。

学校教育がそうです。

僕が大学に在職していた終わりの頃には「質保証」とか「工程管理」とか「PDCAサイクルを回す」というような製造業の言葉づかいがふつうに教育活動について言われるようになりました。缶詰を作るようなつもりで教育活動が行われている。だから、規格を厳守する、効率を高める、トップダウン・マネジメントを徹底させるというようなことが1990年代から当たり前のように行われるようになりました。

この転換によって、「子どもたちのどのような潜在可能性が、いつ、どういうかたちで開花するかは予見不能である」という農作業においては「当たり前」だったことが「非常識」になりました。「どんな結果が出るか分からないので、暖かい目で子どもたちの成長を見守る」という教師は「工程管理ができていない」無能な教師だということになった。それよりも、早い段階で、どの種子からどんな果実が得られるかを的確に予見することが教師の仕事になった。「何が生まれるかわからない種子」や「収量が少なそうな種子」や「弱い種子」は「バグ」としてはじかれる。品質と収量が予見可能な種子にだけ水と肥料をやる。例の「選択と集中」です。

人々がそういうふうに考えるようになったのは、別に教育についてのイデオロギーが劇的に転換したというわけではありません。ごく単純にドミナントな産業が農業から工業に変わったからです。

いずれ工業のメタファーも打ち捨てられて、ディスプレイに向かってかちゃかちゃキーボードを叩いているうちに銀行預金の残高が増えてゆくのが「生産」の一般的なイメージになり、それに即して学校教育の「当たり前」も変わってゆくはずです(たぶんその時には「創造的思考」とか「スマート化」とか「投資対効果」とかいう言葉が大学教授会で飛び交うことになるでしょう・・・、というかその頃にはもう大学教授会などというものはこの世からなくなっているでしょうけれど)。

産業は人間が創り出したものです。機械は人間が設計したものです。でも、ご覧の通り、人間は自分が創り出したものを「ものさし」にして、それを模倣し、それに従属して人間を「改鋳」しようとする。やめろといっても、そういうことをする。人間というのはそういう生き物なんです。

本書の中でも「機械論的な身体観を内面化させた人」についての論及がなされています。機械の動きというのは、人間の動きを単純化したものです(ヒンジ運動とかプレス運動とかは人間の自然な身体運用のうちにはありません)。でも、自分で機械を制作しておきながら、それに囲まれているうちに、機械の動きを模倣して身体を使うようになる。自分が創り出したものに支配される。マルクスが「疎外」と呼んだのはこのような事態のことです。

別にそれはそれでいいんです。人間というのは「そういうもの」ですから。自分が創り出したものに支配されるという倒錯も一種の能力と言えばそうなんです(動物にはそんな器用な真似はできません)。

でも、とりあえず現代人は工業製品の製造工程(というそれ自体すでにかなり時代遅れなプロセス)をモデルにして、自分の身体を使おうとしていることについては声を大にして言っておきたいと思います。中枢的に管理すること、個体を規格化すること、シンプルな「ものさし」に基づいて個体を格付けし、高い格付けを得たものに資源を傾斜配分する・・・という一連のプリンシプルに基づいて現代人は身体を使おうとしていますけれど、それはある歴史的な時期に固有の、一種の民族誌的偏見に過ぎません。そういうことを「どうしてもやりたい」という人は、お好きにされればいいと思います。でも、これは前期産業社会に最適化したプロセスですので、もうだいぶ前から使いものにならなくなっているということだけは知っておいた方がいい。

僕たちがこの本の中で提言しているのは、とりあえずは、もう少し前の時代の、人間が工業生産のメタファーで身体をとらえる習慣がなかった時代の「身体の潜在可能性に対して楽観的であること、予見不能な資質について開放的であること」です。たぶん、このやり方の方が「次の時代」に適応する可能性は高いと思います。

 

もう一つ、この本では、「潜在可能性を開花させる」という向日的なテーマの他に、「よく死ぬ」とはどういうことかという、われわれの年齢(もう古希ですからね)にふさわしいいささか重いテーマについてもかなり長い時間を割いて語っています。

ここでの僕たちの合意点は、一言で言えば、「よく死ぬためには、生命力が高い必要がある」ということです。

変な話ですけど、そうなんです。

健康で長生きすると「いいこと」があると昔父親が教えてくれました。父の説によると「健康で長生きすると死ぬとき楽だから」だそうです(実際に父は長寿で、死ぬ間際までしっかりしていて、最期に家族に向かって「どうもありがとう」と言い残して永眠しました)。

なるほど。

僕くらいの年になると、もう死ぬことそのものは怖くないんです。やりたいことはだいたいやり尽くしたし、ライフワークとしていた仕事もほぼ片づきました。たいせつなミッションについては「あとを引き継ぎます」という次世代の後継者たちが育ってくれています。

 

だから、どちらかというと、死ぬのは楽しみなんです。死んだ時に「あ、死ぬというのは、こういうことだったのか!」と長年の問いの答えを得ることができるわけですから。それを楽しみに待っているのです。