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すべての教育実践は子どもの知性的な、感性的な成熟を支援するためにある、それに資するかどうかだけを基準にして教育実践の適否は判断されるべきである。これは教育者として絶対に譲れない、どんなことがあっても譲れない一線です。
2019年5月31日の内田樹さんの論考「英語教育について」(その13)をご紹介する。
どおぞ。
これとほとんど同じことを村上春樹も書いています。村上春樹はアメリカやイギリスやイタリアやギリシャや、世界中で暮らしていて、最後にボストンで河合隼雄さんと出会い、それが一つのきっかけになって日本に帰ってくるのですけれども、江藤淳と非常に似たことを言っています。
「どうしてだかわからないけれど、『そろそろ日本に帰らなくちゃなあ』と思ったんです。最後はほんとうに帰りたくなりました。とくに何が懐かしいというのでもないし、文化的な日本回帰というのでもないのですが、やっぱり小説家としての自分のあるべき場所は日本なんだな、と思った。というのは、日本語でものを書くというのは、結局思考システムとしては日本語なんです。日本語自体は日本で生み出されたものだから、日本というものと分離不可能なんですね。そして、どう転んでも、やはり僕は英語では小説は、物語は書けない。それが実感としてひしひしとわかってきた、ということですね。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)
村上さんはデビュー作『風の歌を聴け』を最初は英語で書いて、それを自分で日本語に訳すというかたちで書き出したそうです。それがあの独特の文体の原型になった。でも、村上春樹さんも最終的には世界文学になるためには日本語の「淵」に立ち戻ってきた。その消息は河合隼雄さんとの次のやりとりから伺えます。
「村上 あの源氏物語の中にある超自然性というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。
河合 どういう超自然性ですか
村上 つまり怨霊とか...
河合 あんなのはまったく現実だと思います。
村上 物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?
河合 ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)
河合隼雄さんはこの時に『源氏物語』に出て来る六条御息所の生霊は文学的虚構ではなくて、平安時代の人たちにとってはありありとした現実だったと断定するわけです。そのような物語的現実の中で人間は生き死にしているのだ、と。それを聞いて村上さんはそれ以外の外国語では文学的虚構でしかないものが、日本語のうちでは現実としてありありと顕現することがあり得るということに深く納得する。現実を創り出すのは、それを語る言語である。だから、本当に「世界のここにしかないもの」を創造しようと望むなら、自分の母語のうちに立ち返るしかない、村上春樹はそう考えた。江藤淳が日本語の「淵」に立ち返ろうと思って日本語に帰ったのと、これは同型的なふるまいだろうと僕は思います。
本当に創造的なもの、本当に「ここにしかないもの」は、母語のアーカイブから汲み出すしかない。ですから、どれだけ深く母語のうちに沈み込んでゆくかということと、母語をどうやってより豊かなものにするかということが、同時に文学者の課題になるわけです。それこそがそれぞれの国や地域の文化の質を高めるためにまずなすべきことなのです。
でも、今の日本では、母語に深く沈潜することも、母語を豊饒化することも、教育的課題としてはまず語られることがありません。日本人が日本語によってしか表現できないような新しい概念なり理説なりをどのように提示して、それを世界標準たらしめるのか。それを人類全体の知的資源に登録して、人間の文明をより多様なもの、より豊かなものにしてゆくことにどうやって貢献できるのか。そういう議論を教育論の中で聴くことはまったくありません。
母語の過去に遡ること、母語の深みに沈み込んでゆくこと、これが創造において決定的に重要なことなのです。これもまた僕たちが日常的に囚われている「現代日本語の檻」から離脱するための重要な手立てであるのです。
村上春樹の話ばかりになりますけれど、村上さんはエッセイの中で、はっきりと自分は上田秋成の後継者をめざすと書いています。「雨月物語」と村上文学は直接に繋がっている、と。明治時代の自然主義文学があるけれど、自分は近代文学の文学史的系譜とは無関係であって、上田秋成からダイレクトに繋がっている、と。
まことに奇妙な符合なのですが、上田秋成と現代文学を繋がなければならないということを江藤淳も書いているのです。半世紀以上の隔たりがありながら、江藤淳と村上春樹がともにアメリカから帰ってきたあとに、ほとんど同じことを書いている。それは日本語という回路を通じて、作家はかつて日本語を語ったすべての死者たちと共生しているということです。日本語は「日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路」だということです。二人ともに自国文化の「近代以前」の深い闇の中に降りてゆくことが新しいものを創造するためには必要なのだと書いている。そういう言語的な覚醒の経験をこの二人は共有している。
外国語を学ぶことも、母語の「淵」深く沈潜してゆくことも、ともに「母語の檻」から抜け出ることをめざすという点では少しも矛盾していません。言葉を学ぶということは、この二つのいずれをも欠かしてはならない、僕はそう思います。
学校教育の場で子どもたちに教えるべきことは、「君たちは君たちの言語の虜囚である」ということです。君たちは自由に思考し、自由に感じ、自由に言葉を操っているつもりでいるかも知れないけれど、君たちは実は君たちが閉じ込められている集団的な「言葉の檻」から出ることができないでいるのだ。君たちの語彙も、音韻も、ストックフレーズも、君たちが使うメタファーもレトリックも、すべて「既製品」なのだ。君たちは与えられた言語の中で感じ、考え、語ることを強いられている。でも、君たちの中には自分が「檻」の中にいることを薄々感づいていて、もっと清涼な空気を吸いたい、もっと自由に語りたい、もっと自由に考えたいという願いを抱いている人がいると思う。その人たちに教えたい。「母語の檻」から出るには二つの方法があるよ。一つは外国語を学ぶこと、一つは母語を共にする死者たちへの回路をみつけること。これはとても大切な教えだと思います。
僕は武道を教えていますけれども、それは今の子どもたちに「君たちが自然だと思っている身体運用以外の仕方がある」ということを教えるためです。身体の使い方は言語と同じように構造化されています。子どもたちが現代的な言語運用のルールに繋縛されているように、現代的な身体運用のルールに繋縛されて、それが自然だと思って暮らしている。すべての人間は自分と同じように身体を使って外界を感じ、身体を動かしている、そう素朴に信じ切っているわけです。人間の身体は太古から現代まで、世界中どこでも「同じようなもの」だと信じ切っている。でも、彼らの身体運用はまさに2018年の現代の都市で暮らしている子どもたちに選択的に強制された「奇妙な」身体の使い方なのです。一つの民族誌的奇習なのです。歩き方も、座り方も、表情の作り方も、声の出し方も、すべて集団的に規制されている。
それとは違う身体の使い方があることを、例えば中世や戦国時代の日本人の身体の使い方があることを僕は武道を通じて教えているわけです。子どもたちをその文化的閉域から解放するために武道を教えているわけです。君たちは学べば、ふだんの身体の使い方とは違う身体の使い方ができるようになる。その「別の身体」から見える世界の風景は彼らがふだん見慣れたものとは全く違ったものになる。それは外国語を学んで、外国語で世界を分節し、外国語で自分の感情や思念を語る経験と深く通じています。自分にはさまざまな世界をさまざまな仕方で経験する自由があること、それを子どもたちは知るべきなのです。
結局、教育に携わる人たちは、どんな教科を教える場合でも、恐らく無意識的にはそういう作業をしていると思うのです。子どもたちが閉じ込められている狭苦しい「檻」、彼らが「これが全世界だ」と思い込んでいる閉所から、彼らを外に連れ出し、「世界はもっと広く、多様だ」ということを教えること、これが教育において最も大切なことだと僕は思います。
最初のトピックに戻りますけれども、今行われている英語教育改革なるものは、子どもたちをさらに狭い母語的現実の中に封じ込めようとしています。彼らに現代日本固有の民族誌的奇習を刷り込んで、「これが全世界だ」と錯覚させようとしている点で、ほとんど犯罪的なことだと思います。
いささか過激な言葉を使いましたけれども、おそらく多くの先生方は、実感としては僕に同意してくださると思います。すべての教育実践は子どもの知性的な、感性的な成熟を支援するためにある、それに資するかどうかだけを基準にして教育実践の適否は判断されるべきである。これは教育者として絶対に譲れない、どんなことがあっても譲れない一線です。僕と同じように感じてくださる先生方が一人でも増えて下さることを願っています。それを今の日本の学校の中で、やり遂げるのはたいへんなことだと思います。さぞやご苦労されることと思います。
でも、一昨日の保険医さんに言ったように、教育というのは苦しむ仕事なのです。人類が始まった時から存在する太古的な仕事ですから、市場経済や国民国家ができるよりはるか前から存在した職能ですから、市場経済や国民国家となじみがよくないのは当たり前なのです。でも、われわれはすでに市場経済の世界に暮らしており、国民国家の枠内で学校教育をする以外に手立てを持たない。だから、葛藤するのは当たり前なんです。学校教育がらくらくとできて笑いが止まらないというようなことは、現代社会では絶対にあり得ないのです。それは学校教育のやり方が間違っているからではなくて、学校教育は市場経済とも国民国家とも食い合わせが悪いからです。それについては諦めるしかない。むしろ自分たちのほうがずっと前から、数万年前からこの商売をやっているのだからと言って、無茶な要請は押し返す。Noと言うべきことについてはNoと言う。とにかく子どもたちを守り、彼らの成熟を支援する。彼らが生き延びることができるように生きる知恵と力を高める。それがみなさんのお仕事だと思います。
何だか、応援しているのか呪っているのかわからないような講演でしたけれども、とにかくつらい現実をまずみつめて、それから希望を語るということでよろしいのではないかと思います。ご清聴ありがとうございました。