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並行世界について ☆ あさもりのりひこ No.729 

そういう風に、少しずつ「ずれた」さまざまな世界がある。想像力のある人間は、その複数の世界を自在に行き来することができる。その能力はきわめて重要なものだ。

 

 

2019年6月25日の内田樹さんの論考「並行世界について」をご紹介する。

 どおぞ。

 

 

夜間飛行から今度出る平川君との対談本「話半分」の単行本のゲラを読んでいたら、並行世界について熱く語っていた箇所があった。

面白かったので、私の発言部分を再録。

 

変な話だけど、現代日本というのは、なんだか「あるべき世界」じゃないんじゃないかって気がするんだよね。パラレルワールドの「そっちに行っちゃいけない方」に行った結果が現代日本で、「ほんとうの日本」は今あるような社会とは違うものであるような気がするんだ。歴史的な惨敗の結果できた今のこの日本の方が仮想現実で、「あれほどひどく戦争に敗けなかった日本」の方が現実であるような気がするんだ。

 例えば、1942年のミッドウェー海戦で大負けしたところで、帝国海軍は主力艦を失っていて、もう戦争に勝つ可能性はなくなっていた。だから、あそこで講和条約締結に持ち込めば日本はそれほどひどいことにはならなかったはずなんだ。本土空襲で何十万人もの一般市民が被災することもなかったし、広島長崎に原爆が落ちることもなかった。もちろん満州も朝鮮半島も台湾も樺太も南洋諸島も海外領土は全部手放さなければならなかっただろうけれど、大日本帝国の政体は戦後もしばらくは続いたはずだ。

 実際に、木戸内相や吉田茂は42年のミッドウェー敗戦時点ですでに講和交渉を始めようとしていたんだ。その工作が奏功した「42年に講和した日本」というパラレルワールドでは、江戸時代以来の街並みや景観が日本中に残っている。戦死者数だって、たぶん何万人という程度で済んだ。最終的に、日本の戦死者は民間人含めて310万人に達したけれど、ほとんど最後の1年間に集中している。真珠湾攻撃の日本側の戦死者なんか64人だよ。歴史的敗北を喫したミッドウェーでさえ戦死者3000人なんだから。戦死者や空襲による死傷者は44年に絶対国防圏が破られたあとに集中した。

 だから、せめて44年になってからでもいいから、「もう勝てない」とわかったところで、戦争指導部が「被害を最小限度に食い止めるためには何をすればいいのか? 最終的に守るべきものは何か?」という後退戦の問いに頭を切り替えていれば、日本は今も主権国家であり、国土も、国民の生命や財産も保全されていたんだ。北方四島も沖縄も日本の固有の領土で、米軍基地が日本中にあるというようなこともなかった。

 僕はその「戦争にあんなひどい負け方をしなかったおかげで大日本帝国が続いていて立憲帝政政体であるところの仮想的な日本」のほうが「本当の日本」じゃないかという気がするんだよ。戦争指導部がふつうに合理的、理性的に政策決定していれば、「そうなった」わけだから。僕はそっちに自分の「本籍地」があるような気がするんだ。

 それで最近、その「ほんとうの日本」の戦後がどうなったか考えてみたんだ。憲法は何回か改正されていただろうけれど、結果的には天皇制と立憲デモクラシーが共生する、今の日本のような政体に落ち着いていたと思う。もしかしたら、日本の正式名称はいまも「大日本帝国」で、我々は「帝国臣民」だったかも知れないけれどね。

「敗戦国」ではあっても、一応国民的矜持は維持できていて、自分たちの力で戦争責任を追及することができて、戦勝国に関与されず、日本人の手で、自力で戦後社会システムを制度設計できた。

 東京の風景なんかまったく違っていたと思うよ。空襲がなかったんだから。戦前の帝都って、けっこう美しかったんだよ。江戸時代の街並みと明治以降のモダニズムの街並みが混在していてね。もし、大日本帝国のままであれば、その景観は継続されていた。パリやローマのようにとまでは言わないけれど、ヨーロッパのあちこちの都市のように、それなりに深みのある佇まいが残っていて、住んでいる市民たちももう少し落ち着いた感じになっていたと思うんだ。僕は、そっちのほうが「本当の日本」で、今の日本のほうが「嘘の日本」のように感じる。多分そういうことを何となく感じている人は他にもいると思う。

 

「あり得た世界」を想像する力というのは、知性の重要な活動の一つじゃないかと思う。だから、戦後日本について考えるときに、「あの戦争にあんなふうに負けなかった場合の、並行世界の日本」を参照項にすることは、今起きていることの適否を判定するたいせつな手がかりになると思うんだ。

 だいたい日本は戦争を始めたときに「アメリカに勝ったらアメリカをどういうふうに占領するか」についてまったく考えていなかったでしょ。SF的想像でもいいから、そういうことを細部に至るまで想像しようとしたら話は多少は変わっていたと思うんだよ。

 だって、日本がアメリカを実効的に支配することなんか絶対できやしないということは科学的なシミュレーションすればすぐにわかったはずなんだから。どうやって米本土でのレジスタンスやパルチザンを制圧するつもりだったのか? 

 アメリカ人は建国の時以来建前としては武装市民である「ミリシア(民兵)」を編成して陸軍としていた。だから、今でも憲法修正第二条は市民には武装権を認めている。アメリカには銃器の使い方に習熟した市民が何千万人といる。そういう土地をどうやって支配するつもりだったのか? 中国大陸でさえ点でしか抑えられなかった日本陸軍が、革命権・反抗権を独立宣言に掲げている国の市民が武装して立ち上がった場合にどうやって制圧するつもりだったのか? どうやってアメリカ人を分断して、「親日派」勢力を形成するつもりだったのか? 州制度や連邦制度のどこを変えてどこを維持するつもりだったのか? 

 大本営はそういう細部についてたぶん何一つ考えてなかったと思う。

 アメリカ人の国民的メンタリティについてだって何も知らなかった。アメリカ人は個人主義的で物質主義的だから、大和魂で一喝すれば縮み上がって逃げ出すに違いないというようなことを言って戦争を始めたんだから。「戦争に勝った場合に、どうふるまうことでアメリカ国民と適切な関係を構築できるか」について組織的・長期的な計画を持たない国が戦争を始めて勝てるはずがない。

 ナチス・ドイツはひどい国だったけれど、戦争に勝ったら「劣等民族は奴隷化するか殲滅する」という「明確なプログラム」があった。日本にはそんなプログラムはなかった。実際に現場の軍人の中には「敗戦国民は奴隷だし、殺しても構わない」と思ってひどいことをした人間はいっぱいいたけれど、それは戦争指導部が立案した「プログラム」に基づいてやったわけじゃない。戦争指導部は全アジア人が兄弟愛で結ばれる「大東亜共栄圏」「八紘一宇」という夢想的なプログラムを描いてはいたけれど、そんなの空疎なスローガンでしかなかった。

 でも、アメリカには日本占領政策がちゃんとあった。ルース・ベネディクトの『菊と刀』はアメリカ国務省の依頼で書かれた占領政策起案のための基礎研究だから。ベネディクトは書物的な知識と投降した日本兵からのヒアリングに基づいて、日本人の生活感覚から国家戦略までをみごとに描き出してみせた。その研究に基づいてGHQは日本占領政策を起案した。

『菊と刀』に類するものを大日本帝国戦争指導部は持っていなかったし、そもそもそんなものが必要だとさえ思っていなかった。自分が戦っている当の敵国について「勝ったらどうするか」を考えていない国が戦争に勝てるはずない。

 

 僕は現代日本人が抱えている本質的な問題はここにある気がするんだよ。それは「あり得たかもしれない世界」について考えないこと。僕らがこれから先の日本社会をどのようなものにしたいかを考えるときに絶対に外せないのは「あのときに、あっちへ行かずにこっちへ行っていれば、出現したかもしれない世界」、言い換えれば「さまざまな並行世界」をリアルに想像することだと思うんだ。

 過去において「ありえた未来」を想像する思考訓練はそのまま現在において「ありうる未来」を想像する思考に適用できる。でも、そういうふうに頭を使う人間って、当今の「自称リアリスト」の中に一人もいない。見事に一人もいない。「今ここにある現実」だって、わずかな入力の違いでこれとは全く違ったものになったかも知れない。それが理解できない人間を「リアリスト」と呼ぶことに僕は同意できない。だって、「リアル」って、そういうものでしょ。ここにある現実だけが「リアル」で、それ以外は全部等しく「アンリアル」であるわけがないじゃない。今ここにはないけれど、「わずかの入力の違いでありえたこと」と「天地がひっくり返っても絶対に起こり得ないこと」を同じように「アンリアル」だとひとくくりにして、「現実じゃないんだから、それについて考える必要がない」と思っているような人間は「リアル」ということについての理解がいくら何でも浅すぎる。そんな人間がしたり顔で自分を「リアリスト」だとうぬぼれて、「あり得た世界」について考えている人間を妄想的だと思い込んでいるのを見るとほんとに腹が立つんだよね。

 だって、僕らの現実は「今ここには現勢化しなかった」複数の並行世界的リアリティによって取り囲まれているわけでしょ。その複数のリアリティを、おのれの想像力と知力を駆使して自在に行き来することができる人が本当の「リアリスト」だと僕は思うよ。

 僕が、村上春樹を高く評価する理由はまさにそこなんだ。彼が小説の中で並行世界を描き続けているからなんだ。彼がエッセイに書いていたんだけど、何かの作品で「フォルクスワーゲンのラジエーター」について書いたら、読者から「フォルクスワーゲンは空冷式なのでラジエーターはありません」という指摘があったんだって。それに対して村上春樹が「これはフォルクスワーゲンにラジエーターが付いている世界の話として読んでください」って回答していた。それで正しいと僕は思う。

 

 そういう風に、少しずつ「ずれた」さまざまな世界がある。想像力のある人間は、その複数の世界を自在に行き来することができる。その能力はきわめて重要なものだ。そういうメッセージのように僕には読めるんだ。